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もう一つのデフレ

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ミートアップとフリースクール以外の、無料で語学力を高める機会に、図書館でのLanguage Exchangeというものがあります。

と言っても中身は、市が図書館の一室で「外国人たちどうしのおしゃべりの場」を提供している程度のもので、アプリで紹介されているミートアップとの違いと言えば、運営者が公か民間か、というところと、場所がバーか図書館か、というくらいのものです。

  

ところで、ここダブリンは、街の面積が小さく、どこに行くにも便利な「コンパクト シティー」であり、その意味では非常に気に入っていますが、誤解を恐れずに言えば、全てにおいて規模やサイズの小さい、実に「ショボい」街でもあります。

 

先日、Language Exchangeに参加しに、「中央」と冠されているのにもかかわらず、普通のショッピングモールの中にある、ショボい「中央図書館」に行ってきました。

 

開始時間が5分も過ぎればその部屋は満員になり、各国の語学学習者でいっぱいになります。

ロンドンで都合二年も語学学校に通っていたこちらとしては、目的はもはや語学の上達というより、面白い会話に出会えないか、というところです。

 

今日はスーダン出身のナイスガイに出会えました。

かなり達者に、そして流暢に喋る彼は、僕にとっては初めて会うスーダン人でしたが、日本人の僕から見たら、かなり友好的な好人物でした。

 

というのも、彼は終始、日本ブランドのハイテク技術や日本人そのもののホスピタリティーに対して、無条件に尊敬を示していたからです。

 

しかし、そもそも僕はテクノロジーの恩恵に対して懐疑的であるうえ、日本人であるがゆえに気づいてしまう、日本人の国民性の、愛せる方と愛せない方の両方を当然知っているので、その愛せない方をこのスーダンのナイスガイに教えてあげました。

 

あくまで主観ですので、解釈の行き過ぎはあることだと思いますが、日本の全ての「働く人」は程度の違いや、建前か本音かの違いはあるとして、顧客満足度を念頭に働いております。

これは「使命感」とはまた異なる物です。

 

「お役所仕事」と揶揄される公務員でさえ、「お客様のため」の代わりに「市民のため」を、少なくとも形式上、働く動機としています。

 

「お客様は神様」に代表されるように、我が国の売り手と買い手の間には、奴隷とその雇用者並みの隔たりがあり、ホスト側は常に「ホスピタリティー」という名の、強迫観念にも似た無限サービス残業精神を、ゲスト側に強いられることになります。

 

これが文字通りの「サービス残業」なら「時間」で数値化されるので、「サービス」で損失してしまった労力、あるいは労働力を意識下に置きやすい分、まだ救いがあります。

 

問題は無意識化、あるいは意識されにくいものの方です。

分かりやすい例が「営業スマイル」や「スマイル0円」です。

 

顧客満足度を上げるための労力が、例えば製造業における、初期投資の型作りやライン設定の様に、一度の仕組み作りで済むのなら別ですが、接客業や営業職のようにその都度のマンパワーを必要とされる職場では、この「お客様は神様」精神がしばしば顧客の天井知らずの要求を生み出します。

 

ほんの数年前、僕は日本最大手の一つ、某通信会社のコールセンターで副業をしていました。

大企業らしく、一般常識と法令を遵守した、クリーンで「セーフ」な会社です。

ちなみに東京のおホモだちと出会ったのもこの会社です。

http://ximcataguele.hatenablog.com/entry/2016/02/20/174942

 

「セーフ」な会社らしく、壁には「顧客満足度を上げる」なるコピーが掲げられているわけですが、このどこにでもあろう「コールセンター」という職場が、「スマイル0円」と同義の、誰も幸せにならない日本社会の構図を見事、縮図化していたのです。(ちょっと大げさ)

 

詳細は省きますが、「電話越し」という状況柄、顧客がフリーダイヤルで無理難題を押し付け、罵詈雑言でストレス発散(出来てない人も多いが)をし、少なくともオペレーターはフラストレーションを蓄積させる、という一連の良くない流れがしばしばこの手の職場にはあります。

 

ちょいちょい堂々と言い切る顧客側の言い分として

「顧客のイレギュラーな要望に応えるのも料金(通信料)に含まれている」

「顧客の要望を叶えることもオペレーターの給料に含まれている」

というものがありました。

なるほど、いい意見です。

 

一方でこれらは

「商品というものには『無茶を聞いてもらえる』というホスピタリティーが無料セットで無条件で付いていて」、「設定された労働時間の中で、時間では測れない(数値化できない)『顧客に服従する』というストレスも従業員の給料に含まれている」

と言い換えることもできます。

これも全くのデタラメというものでもなく、ちなみに時間給で働く派遣社員だろうが、正社員であろうが、労働時間という規定が我が国にある以上、条件は変わりません。

 

しかし、そもそも「顧客のため」という大義名分、というよりは免罪符を持って、同じ値段で同じ品質の商品に、無償でサービス(労力)を上乗せする、という行為は、上乗せしたサービス分、元の商品それ自体の価値(価格)を下げたことに他なりません。

ある意味、デフレです。

 

それと「スマイル0円」に代表される無償のホスピタリティーは、発注元と発注先との間に暗黙の了解ともいえる「程度」や「限度」があることを大前提に成り立ってきた、という「幅」があります。

この「幅」というのは定義がデジタル化できない、「曖昧さ」みたいなもののことです。

 

この「幅」がなし崩しに発注元の言い値になってしまうと、あの時代のあのファストフード店では、「スマイル5兆個ください」という「正当」な利権主張者と、「ハイただ今」という返事とともに求められた回数のスマイルを繰り返す社畜が出来上がってしまうのです。

社畜と言いましたがこの場合は「会社」の家畜というより、商取引の現場における「階級社会」の家畜といったところでしょうか。

 

ごめん。やはり行き過ぎた。

5兆は大人げなかった。

 

しかし、5兆が悪どいとわかるように、「何を基準として」、「どのような顧客に」、「どのように接していくのか」を考えることが、実は最終的に国民全体の幸福度を上げることに繋がっていくのではないでしょうか。(ちょっと宗教っぽい、とかは言わないで)

 

つまりあの大企業が壁に掲げていた

「顧客満足度を上げる」

ことよりも、世界一高いともいわれている日本の

「消費者の要求水準そのものを下げる」

ことが、最終的には国民の満足度を上げることに繋がるのではないかと思っています。

 

言い方を変えれば

「顧客を育てる」

です。

 

これを怠っている日本社会の、ある意味デフレスパイラルはここ近年話題になっている団塊世代の「夫源病」に似た側面があると思っています。

 

どちらも、相手を甘やかした(育てなかった)ツケが自分に返ってきている。

自分だけならいいが、社会全体にも「神様」化した無作法がはびこる。

その無作法を受ける側にまわることもある。

溜めたストレスの行き場を「神様」になったときに発散。

繰り返す。

スパイラルする。

 

「うちのような大企業が他の大手と結託して、顧客満足度を一気に下げてくんねえかな。あと大手自動車会社とかも」

などとその当時、僕は結構真面目に考えていたのですが、そこはクリーンで「セーフ(安パイ)」な大企業、やるわけがありません。

 

しかし、そこでメゲては、「どうせ俺が投票したところで変わんないし」と言って選挙に行かない若者たちと一緒になってしまうので、僕は一人、受話器越しに行儀の悪い大人たちを教育していました。

ほら、「正義はいつも少数から始まる」とも言うし。

 

一応、自身の名誉のために言っておきますが、全ての顧客を粗雑に扱っていたわけではありません。

「どのような顧客に」「どのように接するか」の「基準」は僕なりにきちんとあって、それは非常に道徳的で単純明快なもので、「もしプライベートだったら」ということだけを念頭に接する、というものでした。

 

つまり、売り手と買い手の関係は奴隷と雇用主のそれではなく、ただの合わせ鏡だということです。

通りで道を訪ねてきた人の態度が悪かったら、こちらもそれなりになってしまう一方、本当に困っていたら無理なことでも聞いてあげたくなるように、「右の頬を打たれたら左の頬を」然とした聖人スタイルではなく、等身大の自分、よりちょっとだけいい子ぶって、ちょっとだけ丁寧さをそれぞれに上乗せしてやる、というものでした。

 

つまり、会社から求められるいいサービスマンを目指す前に、小学校で教わりそうな「おかしな人にはおかしいと指摘してあげ」、「困っている人に思いやりを持つ」の基本に帰すだけで良かったのです。

 

そして、自分自身の振る舞いが果たしてこの道徳どおりに出来ているかは一先ず省みず、「みんなが小学校で求められるようないい子になったらいいのになあ」と妄想していました。

 

ちなみに仮に、百歩譲ってもらって、仮に、僕の願いが通じて、みんながいい子になって「デフレ」が止まったとしましょう。

この場合、「デフレ」が止まることは商品の生産に対して労力が減ることを意味します。

生産性が上がるということです。

その結果、どうなるか。

 

これがヨーロッパの国なら「仕事が短縮された分、みんなで早く家に帰る」という結果になる、ということをいつか何かの記事で読みました。

ごめんなさい。参照元不詳で、真偽も定かではないですが、ほとんど寄付とボランティア活動で成り立っているセミプロスポーツクラブの絶対数の多さと、人口当たりの割合の高さから見るそのホスピタリティーに、頷けるものはあります。

 

では日本ではどうなるか。

 

余力が出た時間、人員に別のストレスを課して、マンパワーの耐久性に頼った、元のコンディションに戻します。

課すべき新たなストレスが見つからない場合は、リストラです。

 

かようにして「資本主義社会の競争原理はそんなに甘くない」という声も聞こえてきそうなオチに結局たどり着いたわけですが、一般常識に欠けた僕の言動がいかに「理想主義」や「きれいごと」と揶揄されようとも、「理想主義」の中にこそ目指したい理想があり、「きれいごと」はきれいなもので出来ているという一定の真理を僕は知っています。

 

よって、電車内で何度断られようとも、自分の席を差し出し続けるような心意気で、こんなことを例のナイスガイ・スーダンにまくし立てたわけですが、さすがナイスガイ、

「でもやっぱり日本人はグレイトだよ」

と、これまでの渾身の言いがかりを、脂っこい笑顔一つで全てチャラにしました。

ずりー。

 

今までに何度も見てきた、肩に力の入った説得が、自然児の楽観を前に、無に帰す瞬間です。

 

いいなあ、俺も凡人じゃなくて、おまえみたいな太陽のような男になりたかったー。

 

全てのスーダン人がこんな感じかは非常に疑わしいですが、彼のおかげで僕はスーダン人にちょっと憧れています。