なしなしのあるある
サッカーのコーチをしていることを明かすとよく返されるコメントに
「だから体がシャープなんですね」
という誤解があります。
いいえ、これはアラフォーならぬマジフォー独身男の「せめて体形だけでも」という涙ぐましい節制のたまもので、少年サッカーならいざ知らず高校や大学サッカー、ましてやセミプロに教えるとなるとコーチが選手に混ざって一緒に体を動かすなんてことは一切ありません。
唯一の運動が直立です。
ちなみに裏方作業であるセッションプランニング(練習メニュー作成)、リキャップ(復習のための記録)、自チームと対戦相手両方の分析、選手評価、ミーティングなどを、資金が豊富でないクラブのコーチは一人で請け負うことになります。
さらに自己のスキルアップのために、スタジアムやテレビでのプロの試合分析、または読書などのその他諸々も併せると、仮に現場での指導が2時間あるとしたらピッチ外で費やす時間はピッチ内でのそれの3~4倍になります。
このピッチ外の諸作業に共通しているのは全て座り仕事ということです。
尚かつ分析を筆頭にかなりの集中力を要する仕事でもあります。
およそ週一回のペースで行われる公式戦の重圧は選手時代のそれとは比べ物にならないほどで、指導者あるあるの「一試合ごとに二、三歳年をとる」という言葉が、特に昨シーズンは大袈裟でないくらい毎週末は疲弊していましたが(実際に試合から帰るたびにハウスメイトに「おじいちゃんになっちゃったみたい」とよく言われてました)フラストレーションという観点から見れば日々の準備作業もなかなかのものがあります。
よって心身ともに健康を保つためにはそれなりのルーティンのような、気持ちが鬱屈したときにはこれを、というものが僕の中ではあります。
掃除
料理
軽い運動
歩行
です。
上3つに関しては浸透度が高いと思われますが、そもそも「軽い運動」の一つでもある「正しい」歩行には呼吸とともに体の状態を正常に整える効果があることを、数年前に通ったロルフィングという超マイナー民間療法で学びました。
以来、ウォーキングを重宝しているので、徒歩20~30分圏内のミートアップやフリークラスはもちろんのこと、1時間以上かかるサッカークラブにもしばしば徒歩で通勤したりしています。
そんな生活の中、しょっちゅうのことですが、練習後に雨が降り出した夜があり、徒歩での帰宅は困難だったため久しぶりにバスを利用しようとしました。
そしてバス停で一人、なかなか来ないバスを待っていると一目で酔っ払いとわかるおっちゃんがこちらに近づいてきます。
例に漏れずひどいアイリッシュ訛りでしかも酔っぱらっているしで英語が通じないふりをしてもよかったんだけど、ついつい魔がさして返事をしてしまいました。
「やっと(バス停に)着いた。なあ、あんちゃん、40番(バスのルート番号)はここ停まる?」
「うん。俺もそれを待ってる」
「バスが来るまでの間、俺のジョークでも聞きたいかい?」
「いや大丈夫だよ」
「実は俺、ユーモアのセンスがあるんだよ」
「うん」
「俺のジョークを聞きたいかい?」
「いや大丈夫だよ」
「それじゃ最初はこれだ」
会話の噛み合わせは一切無視しておっちゃんは続けます。
「えーとねー。牛が柵を跳び越えました。なんでだ?」
うわー。ちょー下手。布石も前ふりもタメも、そもそもストーリーも何も無いんだー。
だったせめて「さて問題です」くらい言ってほしい。
しかも、な、急な質問形に戸惑っていると、言葉が分からなかったと誤解したらしく、ご丁寧にも同じ質問をゆっくりと繰り返してくれます。
「だからー、牛がね、牛、牛分かる?」
牛くらいわかる。
「柵をジャンプオーバー・・・しちゃったの」
うん。
「なーんでだ?」
だから、はえーんだよ「なんでだ?」までが。
しかし社交性ばっちりの僕は、何より小心者なので彼に丁寧に
「わかんない。何で?」
と答えてあげると、
「柵が低すぎてくぐれなかったからだよ!ダッハァッ!」
と、彼はパンチ力のある笑いを放ちました。
祖国のテレビ業界で活躍しているあの外タレですら今時言わなそうなアメリカンジョークは素粒子ほども面白くなかったけど、その素粒子ほども面白くないジョークをセルフで「ダッハッハッハッハ」と笑い続けるおっちゃんと困り果てている日本人を俯瞰視してみたらなかなか可笑しくて、不覚にも僕も一緒に笑ってしまいました。
これで気を良くしたのか、バスが到着して乗り込んでから、わざわざ彼から遠い席を選んだのに、酔っ払いがそんなことを許すわけもなくやはり彼は僕の隣に席を移動してきます。
まあ、性格の良さそうなおっちゃんではあったので好意を無下にしたくはなかったのですが、他の乗客の目が気になり嬉しさ2割、迷惑8割といったところです。
世の中をひずみ無く回すために年配者のたわごとや説教を聞いてあげるのは我々世代の役目であるのと同様、酔っ払いを優しく扱う義務が不酔っ払いにはあると思い、笑顔で接してはいたのですが、残念だったのは僕の停留所で「降ります」ボタンを押したときに
「あ、おまえ賢いな。逃げる気だな」
と誤解されたことです。
しかし
「そんなこと無いよ。何ならもうちょっと聞いていたかったくらいだよ。楽しいジョークをありがとう」
と右手を差し出すと
「俺の方こそ付き合ってくれてありがとう。悪かったね」
と右手を握り、グリップを強めてくれました。
ああ自分でも悪いと気づいてたんだ、とバスを降りてからぼんやり思い返してみて、そういう心持ちでの絡みなら、むしろバスの中で堂々とスマホからイヤホン無しで結構な音量の音楽を聴いているロンドナーよりずっとマナーがなってるな、と思いました。
こういうのは基本的には若者ですが、ロンドンのみならずダブリンの車中にも会話の声が大きすぎてコメカミをつんざくレベルの者までいます。
ただその一方で、日本での「マナー」と呼ばれるものの中には神経質すぎて逆にそれが「マナー違反」、いやむしろ「ハラスメント」とさえ感じるものもあります。
例えば、イヤホンからの音漏れはもちろんのこと、電車内での携帯電話使用も、何故「悪いこと」とされているのか、その本当の理由が僕にはわかりません。
建前ではなく本当にペースメーカーを付けている人を慮るのであれば、事実上機能していない「優先席の近くでは電源を切りましょう」より、専用車両を作ってあげて、と思ってしまうのです。
実際にはなし崩しになっていることからも明らかなように、これらの「マナー」は電波ではなく音に対してヒステリックな人たちが、そもそものあの雑音の中で図書館内の環境を求めている、神経質で傍若無人な、逆に「マナー違反」な主張に映るのです。
ただ困ったことに「イヤホンの音漏れくらいでケチをつける神経質な人たちに、神経質でない人たちも神経質に文句を返しましょう」というのは出来の悪いパラドックスであり、結局これは勝ち目のない出来レースでもあり、そこにもどかしさを感じます。
更には、車内でのただのフェイス・トゥ・フェイスの会話に関しては、上手い揚げ足取りが見つからないのでしょう、了承をしているところにも矛盾を感じてまた癇に障ります。
そんなに神経質ならいつまでたっても一定の割合で存在し続ける、口の中で音を立てながら物を食べる人をもっともっと非難してくれよ、と関係ないことまで思いついてしまいます。
申し訳ない。大人げなかった。
負け惜しみが過ぎた。
結局この手の論争は、ただの好き嫌いだけの物言いにヒートする傾向があるので気をつけたいところです。
体感的なものなので正確性に欠けますが、マナーや行動様式におけるこの類の定着したものは、大体メディア(主にテレビ)で誰か(主に芸人さん)が指摘したことが、その指摘が程よく上手いところをついている「あるある」だった時に、一定の期間を経て市民権を得たものだと思っています。
ちなみに「あるある」ではありませんが、購買意欲をそそるような流行色や風水にまつわるあれこれも、プラス「お金儲けの都合」でこの類のものだと睨んでいます。
財布を例にすると「こまめに新しく買い替える方がいい」とか「お札を折り曲げない長財布の方がいい」とかいうアレです。
話をマナーに戻します。
あくまで全て個人的な考えですが、この釈然としない「マナーハラスメント」の原因には神経質な有名人のメディア利用の成功以外にももう一つの側面があると踏んでいます。
ミスを恐れる日本独特の教育文化です。
10年ほど前に働いていた会社での主な仕事の一つに、役人との交渉がありました。
あくまで政治的な意図や金銭的な支配などが無い条件下での話ですが、何か新しく良い(と思っている)ことを始めたいとき、それを行政に認めてもらうためには膨大な数の賛成(署名)が必要である一方、反対(苦情)に対しては恐ろしく反応が早く、わずか一つ、二つの苦情でその「良いこと」が消滅の危機にさらされる、という状況を何度も目の当たりにしてきました。
学校教育で「ミスは悪いもの」と散々叩き込んできた結果として、大人になったら苦情に対して異常なアレルギーを見せるのは実に自然な流れとも言えます。
かつて僕は「日本人はルールは守るがマナーを守るのが得意でない」と思っていて、その原因はほとんどの日本人が無宗教だからと考えていました。
宗教が育てるかもしれない思いやりや気配りの心が、宗教が無い分少ないのではないかと。
それが今では、メディアを通して市民権を得た「マナー」と呼ばれるものが素直に受け入れられるところを見ると、日本人は感受性が高くて非常に行儀がいいと思い直した、というのは皮肉すぎるでしょうか。
ただ僕は、日本で行き過ぎたマナー広告の下で、そのくせお年寄りに席を譲らない健常者の若者を見るたび、そしてロンドナーたちのやかましさを思い出すたびに、「牛が柵を」どうのこうのとヨタっていたおっちゃんの別れ際の鮮やかさに、加減のいい振る舞いを感じてしまうのです。
ホント言うと「日本人は」とか「ロンドナーは」とか言うのは、何なら差別にまで発展しかねないマナー違反の一つですが、事実、国によって異なりはしても「マナー」と呼ばれるものには必ず神経質で気難しい一面があるので、この際、我が国では細かいマナーの設定や定義はいったん無しにして「気遣いをしましょう」くらいの気楽さに戻した方がいいんじゃないかと感じます。
うん。「思いやり」はちょっと固い。「気遣い」くらいがちょうどいい。
という、結局すっごく月並みで、しかも好き嫌いの話に落ち着いてしまった感は否めませんが、とは言えバスの降り際おっちゃんに言った
「何ならもうちょっと聞いていたかったくらいだよ」
は認めたくないけど、実は半分くらいは本音でした。
成否はともかく人を楽しませようとする、
社交的である、
人に感謝する、
彼のような人物の話は、面白いかは別として聞いていると心が平和になります。