DubLog

     

罪と罰と罠  

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今回は前回(ソッチの山を眺めながら - Dub Log)のつづきです。

バイタリティーの話です。

 

今日は自転車で30分かけて日本大使館に行ってきました。

ビザ切り替えの際の再入国に関して、1月にイミグレーションの法制度が変わったこともあり、何か知っておくべき情報が無いか念のため大使館からも確認しておきたかったからです。

 

自分の置かれている状況を大使館の職員に把握してもらうために、引き出しにしまってあったパスポートや書類を用意しましたが、不安な僕は念のため滅多に開けないスーツケースの中も調べ、何か持っていった方がいいものは無いか確認します。

 

持っていくべきであろう証明書の類は出てこなかったけど、春夏物の服と再入国の際に訪れるロンドンで必要になるカード類を取り出しておきました。

 

今日はサッカーのコーチの日でもあったので時間的な余裕があまりなかったくせに、珍しく暖かかった好天気を言い訳にして、用事を済ませた後、大使館から徒歩圏内の海辺まで足を運んだりもしました。

 

そのせいで帰宅の際には少し急ぎ気味で自転車をこぎ、クラブの練習場まで向かう時もやはり急ぎ気味で自転車で向かい、一日のタスクをすべて終えて帰宅したときには、都合2時間を超えるペダル運動と、好天気を無視して今までと同じ防寒着で出かけた無精がたたって汗だくになっていました。

 

そしてシャワーを浴びようと、バスルームに持っていく着替えを用意しようとした時に、久しぶりに「やっちまった」ことに気付きます。

 

一人暮らしの男性なら誰しも経験があるかとは思いますが、洗濯のタイミングを間違えて、最後の一枚のパンツを今すでに履いている状況であることにタンスを空けてから気づく、というやつです。

 

たけのこの里を一人でボリボリ食べている内に気づいたら空になっていて「さっき食べたのが最後の一個だったのかー!」のガッカリに似た心境です。

 

たけのこの里の場合はただの認知、認識欲の不満、あるいは楽しみたかった名残や最終回にかける思いの喪失、という精神面のダメージだけで済むのですが、パンツの場合は物理的な不足が伴います。

 

これが普段のように寒さをやり過ごした一日の後のパンツであったなら、僕だって酸いも甘いも噛み分けてきた平均的な中年男子、

「別にいいや二日くらい」

と言って二連投をシレッとやってのけるしたたかさを持ち合わせているのですが、しかし今日のパンツは汗だくです。

不潔です。

 

色々考えた末に、たまたま今日スーツケースから取り出したサッカーの短パンを直接履くという「直接ズボン」をすることに決めました。

不潔です。

 

シャワーの後、スースーするフグリや竿をとぼけながら洗濯機を回し、

「直接ズボンだなんて我ながらナイスバイタリティー」

これで少しはゲイたちに追いつけたかな、と前向きになろうとしましたが、こんなことは日本でサーフィン帰りにしょっちゅうやっていたことなので今更感は否めず、今回はノーカウントです。

 

さて、やっと「バイタリティー」という単語が出たところでヘタクソな前置きは終わりにして本題に入りたいと思います。

 

宗教です。

 

繊細な問題なので、誤解が無いようにあらかじめ伝えておきますが、僕は宗教家に対して蔑視の感情を持ったことはありません。

実際に、信者数の多さから日本ではまあまあ有名で、かつ信者以外からはまあまあ不人気な新興宗教に執心していた恋人が過去にいたくらい、宗教家にはオープンマインドです。

 

もちろん宗教家に対してネガティブな感想を持つ人が一定数いることは理解できますが、他人に対して暴力を含めた攻撃をする犯罪者や犯罪者まがいは論外としても、神様を熱心に崇拝する、あるいはすがりつく、その活力や一途さというものに、僕は強大なエネルギーを感じてしまうのです。

 

身体的なエネルギーの消費量は別としても、例えばそれは一心不乱に甲子園を目指す高校球児であったり、研究に没頭する科学者であったり、女性の下着に偏執する下着泥棒であったり、同じCDを一人で何枚も買う盲信的なアイドルオタクたちのような、彼らが持つ強い情熱に似たようなものを感じるのです。

 

ただ、実際の僕個人の宗教そのものに対する姿勢としては、どっかの神社で両親がついでに買ってきたのでしょう、実家の神棚に勝手に自分の名前が書かれた札が置いてあるのを見るだけで癇に障るくらい、心の狭さを持ち合わせています。

 

更には、ブラジル時代の話ですが「おまえの好きなホザーナ(女の子の名前)、今日のミサに来るって言ってたよ」というウソに3週連続で騙されて、そのホザーナ目当てにミサに通ってしまった不謹慎さも持っています。

 

ところで僕は去年一年間、日本でシェアハウスに住んでいたのですが、その時にハウスメイトに誘われて、近所のお寺で開かれている座禅会に参加したことがあります。

 

初心者たちに対する住職からの説明で「最初はただ無心になるのは難しいから、心の中でゆっくりと数を数えなさい」というものがありました。

「ひと――つ―――― ふた――つ――――」

と10まで数えるのが最初の目標らしいです。

 

新人説明会的なものが終わった後、大勢の先輩方に混ざって座禅に取り組んでみたのですが、この「ただ数を数える」ことが思った以上に難しく、いつも最初の「ひとつ」でつまずいてしまいます。

 

ひと――つ――――う―――う―――Woo Woo Woo・・・ 危ない、長渕の「とんぼ」を歌うところだった。やばいやばい無心無心。ひと―――

 

とこんな感じで、曲者である「う――」繋がりの雑念には事欠きません。

「エブバリパッション」に繋がる「うー!」5連発なんてのもありました。

 

座禅会が終わってからハウスメイトと話したとき、「無心って難しい」と言っていた彼も「五つ」くらいまでなら数えられることを知り、この思考の浮気っぽさはきっと愛すべき我が個性なんだな、と開き直ってしまいました。

 

このような実績からも考えられるように、僕が宗教そのものに対して心が狭かったり不謹慎であったりするのは、やはり嫌悪や卑下から来るものではなく、集中力が無いという僕個人の性格面の不適正さから由来した、妬みや負け惜しみが根底にあるからではないでしょうか。

ゲームが下手な人がゲーム嫌いになるのと似ています。

 

つまり能力的な意味合いにおいて僕は宗教において劣等生なわけですが、しかし劣等生であっても「神様」という言葉はよく使うし、いた方が便利だとも思っています。

 

そんなに頻度は高くありませんが、外国人の友人と宗教の話題になったとき、僕はいつも信者が僕一人の、自分で作った宗教の話をすることにしています。

 

まず、この宗教には名前が無い。

この神は願いを叶えない。頼み事も聞かない。

ただ感謝されてあげるだけの存在。

好きな歌や熱い風呂や好物の食べ物や海や夕日や動物やお酒に癒されたり、救われたりするとき、時に母性に拾われたような感覚になるが、男家族や男友達も同じように癒しや救いになるときがある。

よって母性という言葉だと気持ち悪いので神という言葉を使う。

そしていつも感謝するための神を探している。

つまりマザコンの神様バージョン。

そして天使のような「パシリ」の存在がこの宗教にはあり、この「パシリ」はいたる所にいる。

というわけで今キミが微笑んでいるのは僕が話している内容のせいだけではなく、正確にはそれをキミの耳や頬っぺたまで僕の話を運んだ「パシリ」のおかげでもあるんだよ。

 

という話を、宗教の話題が最後に上がったダブリン行きの飛行機の中で話したのですが、たまたま隣に座っていたというだけで「キミが微笑んでいる」云々のここ5年で1番のキザなセリフのはけ口という犠牲になったロシア美女は、その素敵な笑顔のまま

「それって宗教じゃなくて哲学じゃん」

と一蹴していました。

Yes。

 

しかし僕はかような理由から、宗教だろうが哲学だろうが神様の存在価値を肯定しているのですが、ひょっとして結局出てこなかった書類を探そうとスーツケースを久しぶりに空けたのも、この状況を想定して神様が短パンを用意させてくれた、いわゆる「必然」だったのではないかと、やはり得意げに神様への感謝のポイントを探し当ててしまいます。

 

が、スーツケースの中が不衛生だったのか、それとも単にナイロン生地に肌が馴染んでいないだけなのか

神様、さっきからケツがチョーかゆいんですけど。

 

あ違う。たぶんこれ、キザった罰だ。

 

てことはこの短パン、

クソッ、パシリが仕掛けたトラップだったか。

 

 

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