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他流の「いい男論」

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先日ロンドンを訪れた時、ロンドン時代の最後のフラットの同居人であった日本人のお姉様と、パブに飲みに行きました。 

 

世の中、キャパシティーだとか許容量だとかプラスマイナスだとかの組み合わせは上手くまとまっているもので、長生き家系の比較的夫婦仲のいい中流家庭に生まれ育った、苦労知らずでライトでソフトな人生を歩んできた僕は、特別な存在になったパートナーからただの友人まで、その家庭や恋愛関係において、生死を問わず僕の逆を行く重厚な歴史を持っている、説得力に長けた人間が多いです。

 

このお姉様もその例に漏れず、非常に肉付きのいい人間関係を咀嚼してきた色女で、話の内容からおそらくは10歳近く年上、しかし見た目は僕と同い年くらいの女性なのですが、一通りの近況報告を受けた後、「いい男いないかね」の恋愛話に落ち着きました。

 

ほんの少々ですが、それでもワイドなレンジの活力あふれる彼女の男性遍歴を聞き知っていた僕は、おざなりに彼女の好みを尋ねてみたのですが、彼女はパートナーに求める条件を40個、紙に箇条書きしてそれを財布で持ち歩いているそうです。

 

「40個も?40って、例えばどんなの?」

「例えばー、人種とか年齢とか、あと精神的にも経済的にも安定している人がいい、とか」

「他は?」

「ちゃんと働いている人がいいとか」

 

経済が安定している=職がある、にならないのかな、そうか、身内の財力で生きている人もいるか。

という、さらすのも面倒臭い細かい思考が頭をよぎりましたが

「逆にしんくんはどんなのがいいの?」

と聞かれた時には、最初の一つ目から大きな思考にとらわれました。

 

年齢に比例して、日本人が大好きな日本人論や人生論と同様、いい男論やいい女論、どのようにして素敵なパートナーをゲットするか、的な内容の書をたくさん読み、話をたくさん聞き、たくさん論じてきましたが、賛否はともかく僕の心に残っているこの手の恋愛論が二つほどあります。

 

一つ目は

「いい男になるためには、うんと年上の女性とも、うんと年下の女性とも関係を持ちなさい」

というものです。

 

確か10年位前にラジオで聞いた話だったと思いますが、年上の女性の素晴らしい気配り、気遣いに甘やかされて、しかし育てられて、いい女とはどういうものかを知り、その上で今度はわがままな年下の女性と付き合って、自分が甘やかしながら育ててあげる器の大きい男になりなさい、といった趣旨の主張だったと思います。

 

もう一つは

「5歳以上年の離れた相手と付き合うのは変態である」

といった真逆の内容のものです。

 

理由としては、大体5年間隔で世代というものが一区切りされる社会の中で、話題はおろか生きてきた環境が異なる二人がどのようにして真の意味で心の繋がりを持てようか、それでも良しとしてパートナーシップを結ぶのは変態である、という感じの、やはり昔に読んだ雑誌か何かに書かれてあったものだと記憶しています。

 

ともに賛否両論がありそうな、特に二つ目の方は“否”が多く沸き起こりそうな意見でありますが、僕は双方の言い分に幾分かの道理を見ています。

 

結婚を一度もできていないとなると、特に日本社会では説得力の欠けた物言いになってしまうのですが、身の切り売り以外にほどよい例が他にないので、あえて告白をすると、僕は15歳くらい年上の女性とも年下の女性とも、特別の関係になったことがあります。(法、条例、社会通念をおかしていません)

更には5歳以上の年齢差は余裕のこと、国籍も人種も髪の色も目の色も異なる、今は無き旧共産国出身の女性ともスペシャルなリレーションシップになったことがあります。

 

これを先ほどの後者の言い分に照らし合わせた場合、完全アウト、というよりゲッツー、いやむしろスリーアウトチェンジな変態野郎になるわけですが、僕の周りに5歳以上、歳の離れた外国人と結婚して離婚した人の数より、年数の違いはありますが一応続いている人の数の方が多いことを考慮して、前者に照らし合わせた場合、僕は「メチャいい男」になるわけであります。

 

かようにして僕は「地獄の変態野郎」か「超イケてるナイスミドル」、あるいは両論が正解であるとした「ナイス変態」の三択を自分の”気持ち”に迫られるわけですが、そりゃあ苦労知らずの甘えっこ気質、モノホンの末っ子である僕は迷わず「ナイスミドル」を選択します。

結婚できてないけど、という多少の他意も含めて。

 

あくまで自分の内心との契約に帰結する、ドメスティックな自己申告で、周りの皆様には迷惑をかけない類の告白です。

 

というわけで内面、外見、年齢、財力等々を一切無視して自分を「いい男」と仮定して話を進めると、いい男なんだから高飛車に女性を厳選して、40個と言わずに50個も60個も条件を出してしまおうか、と気持ちがたかぶります。

 

「どこの国の人がいいの?」

「うーん、そうだなあ・・・できれば日本人がいいけど、うーん、こんな暮らしをしてたらたぶん日本人は受け入れてくれないと思う」

「じゃあ歳は?」

「んー、年上でも年下でも・・・」

本当は”社会人以上ひつぎ直前まで“。いや、言いすぎか。

「料理は・・・できなくても別にいいしなあ」

件の外国人の家に初めて訪れた時「今日は私が振る舞おうと思って」と言いながら、あまりにも出来なすぎて、彼女が途中から完全に僕に放り投げたのを思い出しました。

 

結局その場では一つも条件を出せず

「出来るだけ選り好みしたものを書いて財布に入れとくんだよ。叶うから」

と言われてお開きになりましたが、あれから三週間経った今も何一つ浮かびません。

 

“優柔不断”は嫌われる男、デキない男を表す定義の大きな一つですが、迷いが長すぎて自販機に入れた小銭が返却口から戻ってくるくらい優柔不断な僕は、内向的な自己申告といえど「いい男」と思い上がった自分の身の程を知るいい機会になりました。

 

最終的には「女性であること」という、僕が知る限り最も女性に嫌われる「女なら誰でもいい」という態度に置換可能な条件をやっと一つ絞り出したのですが、正確には「姿かたちが女性であること」という条件になります。

 

つまり性転換手術済みならニューハーフでもOKということであります。

つまり僕の精神構造は本質存在主義ではなく現実存在主義であることの告白でもあります。

 

変態っぽいことをサラッと言ってしまったので、文学青年っぽいことを言って取り返そうとしましたが、悪化した感じです。

ホント言うと自分が何主義なのか考えたこともありません。

使い方を間違えている可能性も大です。

 

が、話は変えずにこのまま力ずくでニューハーフで押し切りたいと思います。

 

サラリーマン生活最後の年、社員旅行で訪れた岐阜の下呂温泉で、二次会にニューハーフのショーパブを訪れました。

 

出オチのキモ担当に唇を奪われるというステージパフォーマンスの餌食になってしまった、というツキ指もありましたが、基本的にはきれいなタイ人の女のコ(?)を前に、僕はキャッキャキャッキャとはしゃいでいました。

 

ただ、ステージの終わりかけ、形のいい作り物のオッパイたちに熱狂している僕の横で、後輩が言った「とはいえチクビはやっぱり男なんですね」という一言で一瞬にして平熱に戻ってしまいました。

 

という反省を生かして

「女性、あるいはニューハーフであること」

「ニューハーフは工事済みであること」

「その際、乳首まで完工していること(出来るかどうかは知らないが)」

という、女性の方ではなくニューハーフの方にのみ絞った条件を出せました。

これ、財布に入れたくないなあ。

 

そんなことより途中、自分で「変態っぽい」と認めてしまったわけなので、反社会的な恥ずかしい行動に出るのはたいていこの手の人間であることを警戒して、慣れない恋愛論を語ることをしばらく自粛します。