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インターネット万歳

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風邪明けで久しぶりに出席した語学学校で、少しタイムリーな話題が出ました。

 

活動家たちの活動が世の中を変えることは不可能か

 

というものです。

 

主に動物の権利や保護を訴える団体を主語にしたトピックだったのですが、ネガティブキャンペーン、反対運動を軸にしている活動の例として、核兵器に対するものなども挙げられました。

 

当事国以外は全くの無関心で、僕以外はロシア人とアルゼンチン人、二人のブラジル人、三人のスペイン人で構成されている我がクラスの生徒たちには残念ながら特別な親日家もおらず、日本でサミットが行われていたことすら知らない様子だったので、少なくとも日本語媒体のウェブページ上では沸きあがっているヒロシマの話題について彼らに簡単に説明してあげました。

 

僕は自分では少しばかり保守に傾いた愛国者であると思っているのですが、自国が受けた攻撃を「リメンバー」ではなく「ノーモア」と訴える国民性に、やはり個人的にではありますが、尊敬すべき我が国の自我の幾分かが宿っているような気がしています。

 

よって、当事者になり得た人間がその場に僕しかいなかったとはいえ、先人たちの態度に尊敬の意を表して「非被害者面」と「建設的」に留意しながら、しかし多少の持論を含めての説明となりました。

 

無知や不勉強がバレるので詳細はここでは控えますが、ポイントは「長い期間行われなかったことが初めて達成された」というところです。

 

以前にも述べた戦争の原因にも大きく被るのですが、子ども(付加価値を持たない感情に素直な人間)が「悪い」と思っていることをやったり(やり続けたり)、「良い」と思っていることを禁止したりする背景にはやはり残念ながら金銭勘定やプライドが存在しているように思えます。

 

密猟や核兵器所持や遺伝子組み換えや資本絶対主義の存在もそのどちらかに、あるいは両方に起因しているような気がします。

 

資本と権力はニアリーイコールで結び付きやすいものなので、全ての権力者が、というわけではないでしょうが、少なくとも個人的な素直な感想としては、多くがその権力と利益を安泰なものにするため、あるいはより増すために、テレビや新聞をはじめとするメディアを好都合にコントロールしてきました。

 

今でも検閲がかかる国は存在するし、そもそも普及していない国もあることでしょうが、そこいくと政府がコントロールしにくいインターネット上での発言というものに大きな可能性を感じます。

 

「活動家たちの活動が世の中を変えることは不可能か」

「そりゃ不可能だ」

 

と僕以外のクラスメイトは答えていましたが、自国の国民の意思や感情や態度を軍事力で抑え込まないタイプのほとんどの民主国家では、意見の広め方次第では変わるかもしれない、と僕は楽観してしまいました。

 

ネットを代表する文明というものを卑下していたくせに、この点においては手の平を返したように擁護派です。

誰でも意見を言えるがゆえに”炎上“を始めとする、屁理屈で揚げ足取りの空虚なやり取り/コミュニケーションを生み出しているにしても、です。

 

ネット上の発言に対しての賛否は解決しそうにない永遠の話題の一つに思えて、正直僕自身も食傷気味ではありますが、たとえそれが故にその信ぴょう性や信頼性を問われようとも、権威が干渉しづらい手段であるという点において、やはり一定の価値と可能性を感じるのです。

 

ヒロシマの”初めて“が別にネットの力(だけ)によるものではない、ということはわかっているのですが、伝え方が昔と異なれば説得の仕方も変わるかもしれない、説得の仕方が変われば説得された方の反応も変わるかもしれない、と前向きな感情を持つことを禁じ得ません。

 

当事国の国民だからこその反応かもしれませんが、だとしても、少なくとも過去に一度も行われたことが無い歴史的な行動が祖国で見られたことに世の中の変化を感じながら、そんなことを考えました。

 

そういえば選挙のルールも少しだけですが変わりました。

個人的には年齢の引き下げよりも、投票を権利ではなく義務にしてほしいと思っているのですが、「投票率が上がれば戦局が読めなくなるから困る」と彼の元首が発言したあの時代から思えば、やはり大きな変化に思えます。

 

思えば、絶対安泰だった江戸幕府だって消滅しました。

やり方というものが変わっていくのだから、活動家のみならず世界を変えていくことは意外と可能なのではないでしょうか。

 

そりゃ不可能だ、なんて言わないで。