DubLog

     

同じ方向を見るということ 1

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私は過去に3年ほどの期間をロンドンで過ごしたことがある。

 

ロンドン生活の何が嫌だったかと問われれば、高い物価でも不美味な食事でもアンフレンドリーなロンドナーのキャラクターでもなく、天気である。

 

冬は寒く日昇時間が極端に短い。

あくまで記憶の中でだが夕方4時には日没を迎えていたような印象がある。

基本、曇りか小雨が年間気象観測表のほとんどを占めるのだが、長く在住している“諸先輩方”が言うには「滅多に降らない」という雪も、私が滞在していた3年間は漏れなく毎シーズン降った。

 

夏は・・・と書こうとしたが、夏の定義が難しい。

日本の夏に当たる6月から8月の気候、ということに関して言えば、日中でも半袖一枚だと少し肌寒く感じることがしばしばあるかもしれない。

少なくとも夜は薄手のもう一枚が必要だ。

 

とは言え、その薄手のもう一枚が不要なほどの高気温の日が連日で訪れることもある。

これが夏の定義が難しいとしている所以だ。

そしてこちらの方のみを「サマー」と呼んでいるロンドナー達は「ロンドンにはサマーが2週間しか来ない」とよく言っていたものだ。

 

サマーの最初の一週間は5月の半ばごろに、次の一週間は7月か8月に訪れる。

「サマー週間」が二度に分割されてやってくるのだ。

 

そしてこの計2週間の恩恵をハイエナのように漁るロンドナー達は、その時が訪れるとロンドン中に点在する大小様々な公園でピクニックを繰り広げる。

 

どこまでが法律で禁止されているのか私の中で未だに曖昧ではあるが、ピクニック中はパブリックな場所であるにも拘らず、みんな割と堂々と、確か禁止されているはずのアルコールを飲んでいた。

上半身裸になる男性や水着姿で日光浴をする女性も多かった。

 

穿った見方をすれば、日光貧乏性のようにそのエンジョイメントにがっつく様子に、じゃあもうここに住むなよ、と言いたくなるほどの貪欲さも感じられ、何故人間という動物は寒い土地や日光が当たらない場所でも暮らすようになったのか、という人類史にまで思いを寄せてしまいそうになるが、この場所で生まれ育った人達からしてみればそんなことは言っておられず、「イズムより明日のパン」ではないけれど、まずはこの2週間を楽しむということが自然な反応なのであろう。

 

そして好天気に対する態度は、ここダブリンでも同じである。

 

訪れたなわずかな期間の夏に市民全員が幸福を感じているようであり、街全体が高揚しているようでもある。

 

気温が高いだけでなく当然昼間時間も長い。

午前4時には白み始める空が午後10時過ぎまでその明るさを保っている。

それが彼らの幸福感を増長させていることは間違いないだろう。

私としても嬉しい限りだ。

 

ロンドンと違ってダブリンでは、公園で水着姿になって寝そべる男女はあまり見られない分、節操の無さという点においてはロンドナーに軍配が上がるが、私もダブリナーのレベルでの日光貧乏性をいかんなく発揮して、先日、徒歩で散歩に出かけた。

 

その途中途中に通り過ぎるパブではどこも、表に並べられた、いわゆるテラス席が昼間から数パイントを楽しむ者たちで埋めつくされている。

 

逆に、喉を潤そうと私が一軒のパブに立ち寄った時に気付いたのだが、屋内のテーブルには空席が目立った。

というよりほとんど人がいなかった。

 

これが夏に飢えている地域での夏の底力であることを改めて思い知り、ハイネケンを注文した、ダブリナーほど太陽に飢えていない私は、空いていない外の席での飲酒を諦め、一人静かに店内のカウンターでそれを飲んだ。

 

そして飲み終えた後の余韻のために幾ばくかの間をおいてから再び外に出て、私はまた太陽の下を歩く。

 

ほどなくして市街地を流れる水路に群がった70~80人の一団を見つけた。

当然飲酒込みのピクニックを楽しんでいる。

 

私はこの国のパブリックでの飲酒に関する法律をやはりよく分かっていない。

よく分かってはいないが、確かロンドン同様、飲食店以外の公共の場での飲酒が禁止されていたと思う。

 

しかしこちらもロンドン同様、ピクニックにおいての公園での飲酒に関しては少しばかりのフランクさが感じられ、それを咎めるような野暮をする者もほとんどいない。

友好的だ。

 

ただ逆に、どんなに天気が良くても公共の交通機関や路上で堂々とアルコール類を浴びる者もいない。

堂々と、という前提ではあるが、ロンドンでもあまり見かけなかった。

友好的だ。

 

さて、市街地を流れる水路というものはどうだろう。

元々違法だろうという前提なので、そこの論点は一先ず置いておくが、“水路”のカテゴリーは公園よりもむしろ路上に近い。

公園と違って歩道からも車道からも丸見えである。

 

“公園に近い論支持者”の心中を推し量ってみれば、一応歩道と水を隔てるための2メートルくらいの幅の芝地が、水路脇にはある。

明らかに敷地外ではあるが、近くにパブがあり、そこの屋外スペースの延長線のようなもの、と捉えられなくもない。

 

いや、ちょっと強引か。

何より、芝地に寝転がっている若者たちのほとんどは、そのパブで注文したパイントではなく、おそらくはスーパーで購入したのであろう持参の缶ビールを楽しんでいる。

スラックラインを張っている者すらいる。

あれは運動具だ。

パブとは全く無関係の代物である。

 

私は別にこの若者たちの様子に嫌悪感を持っているのではない。

むしろ好意的な感想を持っている。

飲酒している若者達のみならず、それを取り巻くダブリン全体の姿勢に好意を持っているのだ。

 

赤信号 みんなで渡れば 怖くない

 

という、我が祖国で最も有名な川柳の一つがある。

ただのギャグを掘り下げるのはいささか野暮と不躾と間抜けを感じるが、この標語には、信号を無視して横断歩道を渡る側の心理しか描かれていないので、ダブリナー達の「水路での飲酒OK」の態度と風景の全体を捉えきらない。

 

「水路」の場合、それを楽しんでいる当事者達のみならず、それを見て特にケチを付けないその他大勢の通行人も、おそらく一度くらいはこの道路を通過したであろう、しかしお咎めをしなかったのであろうパトロールカーも含めて「信号無視」を気にしていない。

 

こんなに素敵な横断歩道なんだもの 信号関係なしに渡りたくなっちゃうよね

 

と、ドライバーからしたら青信号にも拘らず、ゆっくりと速度を落とし、横断歩道の前で停車して、信号無視している歩行者たちを待ってあげるゆとりのようなものを感じるのだ。

 

この手のルールとはそもそもそれを扱う者たちの利便性や利益のために作られたはずだ。

信号然り。飲酒然り。

 

この「水路での飲酒OK」の姿勢にはルール有りきにしていないマナーの良さがある。

例えば、年間で数えるほどしか来ない好天気を皆が楽しんでいる中で、「ルールはルールだろ」と揚げ足取りなのかジョイヘイターなのか、己のストレスを解消させるためだけに、マナーを侵して満悦するような者が、おそらくはダブリンにはいない。

と、少なくとも私は信じている。

 

ルールのように定義化されたものではなくとも、そこにいる、あるいはそこの周りにいる人間全員も含めて、みんなが一つの対象に対して同じ態度を持ち、同じ感想や感情を持つということは、些細なことかもしれないが、これ自体が一つの幸せなのではなかろうか、と私は考えている。

 

ところで、水路の脇の芝地の木々の間に低く張ったスラックラインを見て、私は過去に見た他愛もない一場面を思い出していた。

 

祖父の見舞いが目的なのかサーフィンが目的なのか、いずれにしろ私が宮崎に訪れるたびに必ず寄る、そしてそこ以外には寄らない、というバーがある。

 

去年の宮崎訪問時、まだ高熱で寝込む前(魅惑のアジアンビューティー 3 - DubLog)にそのバーに寄った時、そこの店員であるバーテンダーの一人がこのマイナースポーツについて教えてくれた。

 

彼本人がのめり込んでいて、毎休日に公園に行っては楽しんでいるというこのスポーツは、端的に言えば、木と木などを結んだスラックライン(トラックの荷台の中のゲージを固定する際の、ベルト状のポリエステルのバンドを長くしたようなもの)の上で、ジャンプしたり回転したりと、技を見せ合う、競い合うことを楽しむものであるらしい。

 

その時に、ユーチューブ上でプロが繰り出す大技や、彼が撮ったムービーの中で彼自身が技にトライし、しかし失敗、脳天から地面に落ちる映像なども見せられた。

 

それにいちいち感心しながら驚いてみせたが、実は私はこの時まで、このバンドのようなものにスラックラインという名前が付いていたとは知らず、また同じ名前で競技としても扱われていたとは露にも思わず、陽気なあんちゃん達がただ趣味でやっている、おフザケの綱渡りくらいにしか思っていなかった。

 

というのも、このバーテンダーの話以前に私がこのスラックラインを見たのはただの一度きりで、その時のラインの上の「競技者」は何の技を披露することもなく、ひたすらに綱渡りに取り組んでいただけだったからである。

 

その時、私はロンドンにいた。