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日本人は幼いのか

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人類の祖はアフリカから始まったと言われています。

実際にアフリカに住んだことがないので、あくまで外の世界で得ている情報と知識からの見解になりますが、こと科学や文明の成熟度という観点で観た場合、アフリカ大陸は他から最も遅れを取っている地域の一つではないかと思えます。

 

以前から申し上げているとおり、科学や文明の発展を手放しで喜んでいないので、別に善し悪しの話ではありません。

 

イギリスやアイルランドを始めとする、移民が元で成り立っているアメリカ合衆国は、彼ら移民の祖国を優にしのぐ超大国の座に君臨して久しいです。

 

世界第二位の経済大国に発展した中国も、長いことその経済を支えてきたのは国内に留まった者たちではなく、世界に散らばった華僑であり、現在のそれを牽引しているのは、やはり海外に送り出された新華僑であるとも言われています。

 

新しいことを始め、新しいものを作るタイプというのは、当然行動力のある人間であり、当然その反対である、保守的で、実際の意味でも比喩的な意味でも一つの場所に留まる種の人間は、変化そのものを嫌います。

良い方への変化が起こりづらい代わりに悪い方への変化のリスクも少ないので、これも善し悪しの問題ではありません。

 

ということを考えた場合、大昔、日本列島がまだユーラシア大陸と陸続きであった頃、追いやられたのか新しい発見を求めて自ら去ったのか、いずれにしても人類誕生の地、アフリカからは非常に遠い極東まで移動を重ねてきた我々の祖先は、非常に行動力があり、変化を好むタイプの人間であったと推測できます。

 

が、島国になって以降、鎖国を施行したことからも分かるように、隣の国が陸続きの地域の国民に比べて、外からの影響を恐れ、変化を恐れ、おそらくは一つのところに長く留まる傾向になってしまった我が民族は、「来る者、去る者」との対峙に不得意になってしまったのかもしれません。

 

それのせいか、別れの場面で涙を流す日本人(主に女性)を過去に何度も目にしてきました。

日本人ほどは多くないデータですが、韓国人も何人か見てきました。

 

これを見たヨーロピアンが不思議そうな反応を見せたり、「幼い」という感想を持ったりもしますが、今回の「幼いのか」はこれについての話ではありません。

 

外国人(主に西洋人)好きの女性が、古き良き(?)亭主関白スタイルの日本人男性の武骨な女性の扱い方について、好きになれないその態度をもちろん揶揄する意味で口にするセリフ、「日本の男は幼い」に近い話です。

 

少し前から、サッカーのシーズンがオフになったのをいいことに、単発で入るアルバイトを始めました。

 

あまり多くは明かせませんが、見た目が40から50代の、日本から来た日本のビジネスウーマンを英語でサポートする仕事です。

ただ、彼女たちもそこそこ英語を話せるので、僕の立ち位置としては、いざ込み入った話が必要になったときのための保険のような存在であります。

 

今の若者たちが、アメリカ人をはじめとする外国人の対応にどのような態度が望ましいと教えられているかは分かりませんが、我々氷河期世代とそれより上の人達は、「何かあっても簡単に謝ってはいけない」と教わってきました。

車で後ろから追突しても「謝ってはいけない」のです。

 

相手の怒りや悲しみをなだめ、謝意を示すための日本の謝罪と違って、西洋(主にアメリカ)の謝罪は「非を認めることと同義になるので、そこから100パーセントの賠償責任が発生する」という、確かこんな理屈です。

 

アイルランドにおけるそれの実際は、日本社会以上に頻繁に「ソーリー」を聞くことができ、例えばこちら側に非があって道でぶつかりそうになった時などでも、彼らアイリッシュは簡単に「ソーリー」を発します。

ちなみに「サンキュー」や「チアーズ(サンキューと同義)」も頻繁に聞かれ、これらはダブリンに住む外国人の中では好意的なあるあるとして捉えられています。

 

「○○人って○○なところがあるよね」というセリフがあまり好きでない、と言った舌の根がまだ乾いていませんが(違いを見せた大国の「人類みな兄弟」 - DubLog)、多数決的な括りでいうと、「ソーリー」や「サンキュー」の頻度に比例するように、多くのアイリッシュは受け入れや感謝が得意で、かつ穏やかであるような気がします。

 

ところが、過去に日本国内で蔓延した共通認識、「謝ってはいけない」に根が絡んでいるのか、はたまたそれよりも歴史の長い「お客様は神様」が土台になっているのか、僕がサポートした幾人かの日本人のクライアントが、店員やドライバーや空港職員など、自分より立場が弱い、と日本では見なされている(つまり「お客様は神様」の方程式が日本では使える)人達に対して、高圧的に対応しているところをしばしば見つけてしまいます。

 

彼女たち本人の話によると、様々な国への渡航を経験しているにもかかわらずです。

 

自分の要求と違う結果になり得そうなとき、主張が食い違う時、受け入れと咀嚼と妥協の一切を飛ばして、剛を剛で打ち返すという行為は、格闘技に例えると空手やボクシングと似ていて、合気道と異なります。

 

大袈裟な例えですが、テロ行為に対して空爆で応戦するという行為に似ていて、ハンガーストライキと異なります。

 

そもそも彼女たちが立腹している内容というものが、「日本じゃないからこれくらいは当然のこと、ブラジレイロやロンドナー達に比べたら立派に仕事しているよ」と思えるレベルの、外国あるあるだったりします。

 

そんな雰囲気の中、先日、彼女たちよりももう少しレベルの高い語学力が必要とされる「いざ」という時が訪れました。

 

事の詳細は省きますが、相手方(アイルランド人女性)の最終決定事項に対して、「それが現場で下された判断なのか、それとも相手方の本部(上司)から送られてきた指示によるものなのかを確認してほしい」と、僕のクライアント(日本人)に頼まれました。

 

相手から返って来るであろう反応を分かったうえで尋ねてみましたが、やはり返事は

「私の判断だけど、その二つに何の違いがあるの?」

でした。

 

日本人側の言い分としては、相手方の本部からの指令の場合は何のお咎めも無いが、現場での判断による決定なら、結局はOKになるが、事前の報告と相談が彼女の職場との間で必要、とのことです。

しかし時間の差し迫った案件だったので、相手方も処理を急いでいました。

 

日本特有の慣習かどうかは分かりませんが、少なくとも僕が海外で働いた限りでは一度も経験していない、この独特の、いい言葉で言えば「規律」、悪い言葉で言えば「責任を取りたくないが故の確認」を、僕はあまり好きになれません。

 

「何の違いがあるの?」と言った、実際に結果は何一つ違わない相手方の感情に対して大いに共感できた僕は、もはや国民性の説明に近くなるであろうそれをどのように相手に諭しても、今度は、そこそこ英語が分かる日本人の方に角が立ってしまいます。

 

この仕事は、こちらの国のエージェントを通して紹介されたものですが、我々サポート役に対する顧客からの最重要条件は「日本人であること」でした。

「日本語を話せるアイルランド人」ではなく「英語を話せる日本人」を選んでいる理由は、彼女たちの仕事を少しでもスムーズにストレスなく遂行させるために、日本人ならではのホスピタリティーを身に着けた人材をサポート役に望んでいるから、ということです。

 

よって「何の違いがあるの?」に対して、その理由については言ったところでアイルランド人は理解しないだろうし、しかし理解してしまう日本人の方は気を悪くする恐れがあったので、丸ごと省いて“相談”の必要性だけを当たり障りなく説明しましたが、

「でも本部からの指令ならこの場でOKになるんでしょ?私の判断とどう違いがあるの?時間がないんだけど」

と「ごもっとも」なレスポンスを貰いました。

 

最終的には「あなたの気持ちはよく分かる。が、こちらの状況も察してほしい」と、日本人からは見えない側の目でウィンクをしたところ、相手方も理解してくれたのか、パソコンを確認しながら

「あ、本部からも同じ指令が来てる。じゃあ、問題ないね」

と嘘をついてくれました。

 

そしてそのまま処理にかかり、その処理を終えた彼女はすぐさまお昼休憩に行きました。

 

郷に入っては郷に従え、という大きな話ではなく、「相手に合わせてあげる」という些細な行為は、僕からしたら非常に好感の持てる大人の態度です。

例えば、相手の気持ちを慮って“自分が悪くなくても謝ることができる”というのも、その括りに入ります。

 

時に弱々しく見えたり、ゴマをすっているように見えたり、そうでなくても非魅力的に映ることも、インパクトに欠けることも重々承知です。

 

承知ついでに言えば、僕が理想主義者であることは重々承知ですが、目の前に対峙している人に対して、ファッション性に欠けようとも、パンチ力が無くとも、「相手に合わせる」という、手間がそれほどかからない、月並みな振る舞いを、アフリカも極東も、地球上の人類全員が持ってくれたら、振る舞った以上の効果で人類の不幸は減っていくのではないかと夢想もしています。

損得とは別の話です。

 

無事に事が済んで、日本人のクライアントと別れた後、一人で事後処理をしていると、ランチから戻ってきたアイリッシュの彼女が「問題なかった?」と声をかけてきました。

礼を言って、溜息を共有して、別件で彼女のミスを見つけていたので、それも処理済みであることだけ伝えました。

結果が変わらないタイプのミスだったので、もちろん文句は言いませんでした。

 

誰かのミスのせいで自分が怒られてしまった場合、その後でミスをした本人に怒る人と、怒らない人がいますが、「ミスは1つなのに、怒る人と怒られる人が2つずつ必要になるのは、消費エネルギーが割に合わない」という屁理屈な僕は後者のタイプです。

これはまた「相手に合わせる」とは別の話ですが。

 

ところで、いちいち涙する東アジア人女性の別れにおけるその様子に関しては、実は僕は結構好んでいます。

ポーズとして泣いているのは論外ですが、一回一回のインシデントをいちいちショックに受け止める様は、まるで一生懸命に今を生きる切実で誠実な人間のように思え、尊敬の念すら感じ得ます。

 

それを「幼い」と揶揄する友人には

「おまえら鈍感な野郎たちと違って、彼女たちの感情はバラエティーに富んでいるからな。彼女たちは壊れゆくものに美しさを見出せる民族なんだよ。それに比べてお前ら、味覚ですら5種類くらいしかないし」

と、揶揄のお返しをします。

 

願わくは「はかなさの美学」について説明してあげたいところですが、辞書レベルの説明しかできないので、これは今のところ差し控えています。

 

 

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