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心と体の使い方

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今回、初めて実用的な話をしようかと思います。 

 

「お世話になった方にお願いされての報告ツールにブログを」というもっともらしい動機を初回の記事で失って以来(男は女が必要(A Man Needs A Maid) - DubLog)、それからは継続の美徳に勝手に誘われ、

「少数派が少しでも救われる文章を」

という後付けの使命感をやはり勝手に抱き、思春期の日記レベルの我がブログにも、実は一つだけ心がけていたことがあります。

 

それは「普遍性を保つ」ということです。

 

とはいえ全体から愛されるものも憎まれるものも世の中には無い以上、“少数派”と銘打った胸中の勝手な使命感は、何を述べようとも「どこかの誰かとはシェア出来る“あるある”だろう」くらいの実に低いハードルである狡さを我ながら認めています。

 

尚かつ、最低最悪までとはいかないまでも、ふんだんに躾の悪さが居座っている感のある我が経験談が非普遍感を持ってしまうこともしばしばであります。

 

「いやいや実体験は前フリであり、普遍性を試みたのはそこから導き出された考え方の方」という言い訳もスムーズに発生していますが、自己の哲学のみを晒している我が文章には、そこに何か「価値観の押し売り」、いや、おそらくは読んでくださっている方々が極端に少ないことを考えると、それに届きすらしない「価値観の待ち伏せ」のようなものを自分で感じています。

 

というわけで今回、我が道徳観や信念みたいなものは置いておいて、より実践的で実際的な「手段」や「ハウツー」みたいなことを書いてみようかと思います。

という長い反省と動機の独白を終えたところで本筋に入ります。

 

以前、いくつかの記事でも触れましたが、僕は過去に「ロルフィング」という、カイロプラクティックとピラティスのような要素があり、しかし全然違う、体の調子を整える施術を受けたことがあります。

 

体の調子を良くするには体の使い方を良くする必要があり、ロルフィングの先生から教わったものに「座り方」、「立ち方」、「立ち上がり方」や「歩き方」がありました。

 

そして正しい姿勢、動作に改善していくうえで、重要となるものが主に二つありました。

 

一つは体の構造を正しく理解する、ということです。

 

例えば、人間の足の筋肉の一番上は股関節から伸びる大腿ではなく、みぞおち近くの背骨にくっついている大腰筋というものである、といったことや、足首の関節は、肉や皮膚のせいでL字に見えるが、骨そのものはT字にジョイントされている、といったことなどです。

 

二つ目の重要事項は、直接的な処置ではなく、イメージによるアプローチで、姿勢や動作を改善する、というものです。

 

おそらくは教える側の注意事項でもあると思うのですが、例えば歩行の際に伸びやかさが無く、後ろ足が地面から離れるタイミングが早すぎる嫌いがあった僕に対して、先生は「足が強い」と表現していましたが(おそらく「非効率に足の筋肉を使いすぎている」という意味)、その僕に対するレクチャーの際に、先ほどの大腰筋と足首のT字を説明したうえで

「股関節ではなくお腹から足を出して」

「後ろ足の踵がずーっと後ろに伸びてくイメージで」

という働きかけをしていました。

 

これ以来、いや実はこれ以前から、心と体の関係性に興味を持っていますが、例えばこの先生から紹介された本から学んだことに

「心が体に影響を及ぼすだけでなく、体も心に作用する」

というものがあります。

 

簡単な例を挙げると

「心が嬉しいと顔が微笑むのは当たり前だが、反対に、先に顔を微笑ませてみても心は勝手に嬉しい気分になる」

というものがあります。

実際に試してみるとわかります。

 

落ち込んでいるときは気持ちの鬱屈同様、姿勢も前かがみになりがちですが、例えば背筋とお腹を伸ばして、しかし肩は緩めて、視線を少し高めにして歩くと、意外とある程度の回復を得られることを、後の実体験で僕は知っています。

 

しかし今回の“実用的な話”はこのタイプのものではありません。

イメージが体の反応に作用する、先ほどのロルフィング的なものの方です。

 

イメージや心の状態が体に何かしらの影響を及ぼすという話は、いい加減広く知れ渡っていますが、例えばストレスが胃に穴を開けるとか、すっぱいものを想像すると口の中によだれが溜まる、などもその類のものです。

 

さて、ここからがやっと本題です。

 

おそらくは過去最少人数の、これぞ少数派、に向けた話になりますが、ヨーロッパのパブやクラブなどの公衆トイレにおいてGents(男性)が用を足すとき、大の方は個室なので問題がないのですが、小においては隣との区切りが無いので落ち着かない、という問題があります。

 

女性の方にもわかるように説明しておくと、日本の公衆トイレだと、正しい立ち位置で用を足せば小便器そのものが使用者のイチモツを覆い隠し、左右からの視線を遮断してくれるタイプのものが主流で、そうでない露わになるタイプのものも、代わりにそれぞれ便器間にパーテーションのための陶器が施されていて、いずれにせよ個々のブツに対する周りの視線というものが気にならないように、安心と安全が保たれています。

 

過去の中国では大便ですら仕切りが無かった、という話を聞いたことがありますが、それに鑑みると小便において隣の視線が気になるというのは我が国民特有の事情かもしれません。

しかも別にここヨーロッパで、隣の他人のブツを覗きこむようなマナー違反がいるわけでもありません。

 

世界の公衆浴場事情を考えたとき、水着を着て入浴するのがヨーロッパであり、タオル一枚でうろついているのが日本、という事実を思うと、日本人の方が神経質で意識過剰だから、という結論にもなりません。

しかも僕個人においてはその銭湯で、タオルすら持たない“手ぶら派”であります。

 

平均的なイチモツの背比べにおいて、残念ながら我が黄色人種は白人、黒人、ヒスパニックなど、他のあらゆる人種と比べても劣る、というデータがあるそうです。

僕個人の感想もこれに賛成できます。

 

いかに心優しい女性が「形やサイズは関係ない」と受け止めようとも、アバズレどもが「でも硬さも大事」とはしゃごうとも、男の「モノの大きさ」は、言うなれば小学生の「足の速さ」であり、中学生の「ケンカの強さ」であり、サッカー選手の「サッカーの上手さ」みたいなものであります。

 

つまりは異性を意識したものとはまた別の、男の不文律であり、故に世界で生活する、あるいは活躍する日本男児はこのコンプレックスに苛まれることも度々あるかと思いますが、僕個人においては、ブラジル時代、練習後に堂々とみんなの前でフルチンでシャワーを浴びていたことを考えると、「落ち着かない」の理由に、これも当てはまりません。

 

とはいえ理由が分からなくとも「落ち着かない」と困るのは、純粋に「オシッコが出ない」からであります。

 

特にここヨーロッパでのサッカースタジアムのトイレなど、ハーフタイムに人が押し寄せて、左右ばかりか、真後ろにも列をなしている人たちに立たれると、あら不思議、あれほど尿意を催していたオチンチンがうんともすんとも言わなくなります。

 

この、月に何度か遭遇するこの状況、何とかならないかしら、などとロンドン時代から長いこと憂いていたのですが、最近ある解決法を編み出しました。

 

その前にちょっと話が変わりますが、数年前、実家暮らしをしていた時、その実家に預けた自分の二人の息子を迎えに来た義姉が、ある時、我が母にこぼしていました。

 

「うちの子たち、おフロでオシッコするの。いや、湯船の外でではありますよ、一応。叱ったらヒロ君(兄、彼女の夫:仮名)が『おフロでやっちゃえ』って。で、本人もしてるんですって、おフロで。お義母さん、どう思いますー?」

 

明るくて性格が良くて働き者の、嫁の鏡、みたいな嫁である義姉は我がアホの母とも仲が良く、甥っ子たちを迎えに来る週3回の内、かなりの頻度でそのまま話し込んで長居します。

この日もその長居を決め込んでいて、その際に出てきた発言でした。

 

え?風呂場でションベンなんて男にとってはフツーのことじゃん。

 

という感想を述べる間もなく、母は

「やーねー。ヒロったら」

と苦笑いをしました。

 

何、カッコつけてんの?おまえも、おまえの旦那も、俺たちに風呂場でションベンさせてたじゃん。

 

と思い、しかしこの暴露は母の方ではなく、義姉の方に気まずい思いをさせてしまう恐れがあったので、ここはグッと堪えましたが、要点を言えば、僕は家族に免罪符を与えられた「おフロでオシッコ派」な人間として長いこと生きてきた、ということです。

 

この「おフロオシッコ」の普遍性は洋の東西を問わないのか、ロンドン時代のフラットメイトの日本人女性が、当時20以上歳の若い黒人男性と付き合っていたのですが、その黒人の彼氏は泊まりに来るたび毎回シャワーを使い、その後のユニットバスにはいつもきついアンモニア臭が立ち込めていました。

 

元より僕も同類ですから、していたであろうその行為に腹を立てたわけでもありません。

むしろ「男たるもの、風呂場にて放尿すべし」と思っている僕は、少なくとも日本国内においてはほぼすべての男子がおフロオシッコであるものだと思っています。

 

思っていますが、まれに非フロシッコに出会い、出会った時には、思春期バリバリのくせして「好きなコ、いない」というハナタレや、男子高生のくせして「オナニーしたことがない」というキチガイや、あるいはうちの母の「やーねーヒロったら」と同類の、意味不明の見栄である、と若い時には思っていましたが、さすがに大人になってからはそういう少数派の存在も受け入れるようになってきました。

 

何しろ、限りなく100パーセントに近かった、サーファーにとっては“あるある”にすらならないただの日常である「ウェットスーツ着たままの海での放尿」を嫌い、わざわざ浜に上がってウェットスーツを脱いでタッションするサーフメイトを僕はだいぶ後になってから持つようになったくらいです。

ちなみに台湾でとばっちりを受けたセイジのことです。(アジアの魅力 - DubLog

*本格派はウェットスーツが痛むのでしないらしい。

 

話が大きく逸れました。

 

黒人カレシのきついアンモニア臭を嫌がりながら「きちんと流しきれよ」と毒づきたくもなりましたが、差別心に侵される前に僕はあることを思い出しました。

 

何度か申し上げているとおり僕は20代前半の頃に空港で働いていましたが、その時に先輩社員から聞いた、「各国の空港にはその国を代表する匂いがある」という、眉唾な話です。

 

その匂いとはその国の国民の体臭の平均であり、あるいは代表であり、いずれにしてもそれはその国の食が大きくかかわっており、そもそもこの話が挙がったのは、僕が仕事上のやり取りで相対した韓国美女から、偶然にも3人連続してほのかにキムチの香りを嗅いだからでありました。

 

後に何度か足を運ぶことになるヨーロッパ、特に現在バイトで何度も通っているダブリン空港ではそのような感想を持ったことも印象を受けたこともありませんが、22歳の時に二度目の海外であるペルーの地に飛行機から降り立った際、僕にとっては懐かしい南米特有の甘臭い匂いを嗅ぎ、ブラジルの匂いもそうであったことを思い出しました。

 

少なくとも僕の知る南米のトイレ事情は、日本や多くのヨーロッパの国とは異なり、トイレで大をした後、ケツをぬぐったそのトイレットペーパーを水に流しません。

脇に置いてあるゴミ箱に捨てます。

20年前のブラジルで、とある練習中に腹痛を起こした僕がギリギリの状態でトイレに駆け込み、しかし紙が無く、しかし使用済みのであればゴミ箱の中にあり、背に腹は代えられなかった僕は、比較的きれいな使用済みを選出し、それらのクリーンゾーンで上手いこと乗り切ったのを覚えています。

 

汚い話ですみません。

話が大きく逸れてすみません。

 

要は、僕は南米特有のその甘臭さを、便の匂いだと思っていたということです。

 

が、その先輩いわくそれはおそらく人体の匂いであろうとのことで、ちなみに成田空港も外国人から「ぬか臭い」という感想を持たれる、と言っていました。

まさか一般的な外国人が「ぬか臭い」などという表現を知っているとは思えませんが、口臭か体臭か、はたまた単に飲食店の匂いか、空港のフロアからは我々の食文化に大きく関わりのある大豆の匂いが嗅ぎ取れるそうです。

 

しかし我々はそれを知らず、ブラジル人もペルー人もあの甘臭さに気付かず、そもそも個人単位で考えても、体臭のきつい人ほどその体臭には気付かず、あるいは他人のオナラの匂いは我慢できないが自分のはOK、というのは人間のみならずおそらくは動物界全体のあるあるであり、ということは黒人の彼のシャワー後のションベン臭さは僕が日本人であるがゆえに、あるいはただ単に本人でないがゆえに嗅ぎ取ってしまったものであり、逆に言えば僕の入浴時、条件反射のように緩んだ尿道から尿を放出するその行為は、条件反射であるがためにシャワーの浴び始め、つまりは浴水タイムのかなり前半の段階で終わるので、その後に続くシャンプーやらボディーソープやらが風呂場の床と排水溝と、その空気全体までをも尻ぬぐいのようにコーティング、あるいはカバーリングし、更にはそもそも浴水時間が長いためにすすぎもバッチリ、計画してなかったのに自動的に完全犯罪、と思っていたのは実は僕一人だけで、ここに引っ越す前に住んでいたあのフラットのトルコ人たちも、その前の家のあのコロンビア人たちも、実は我が非行に気付いていたのだろうか?いやそもそも悪臭が個人戦であることを考えると、黒人の彼女、つまり今現在のフラットメイトである日本人女性もこれに気付いている可能性がある!

 

などということを黒人カレシの事後処理中、バスルームの外開きの窓を大きく開けながら思い返し、深く反省し、そしてこの日を境に共用の風呂場におけるおフロオシッコは引退することになりました。

 

よってここダブリンでも、かつて自分が胸中で罵っていた「オナニーしたことない」とほざく高校生のように、ヘタレ野郎な非シッコに成り下がっているのですが、食文化同様、やはり三十数年間も繰り返してきた習慣というものは、その人間の血となり骨となり、その人間のキャラクターの一つになるんだな、ということを最近改めて思い知りました。

 

ここでやっと、最近編み出した、落ち着かないトイレ環境において気持ちよく放尿する方法を明かします。

 

かなり早い段階でお気付きかとは思いますが、その方法とは

「熱いシャワーを浴びているところを想像する」

です。

 

これだけです。

 

職業柄、何百人単位の人の前でスピーチをしなくてはいけないことが過去には多々ありましたが、どういうわけか歳を重ねるほどその際の緊張をより強く感じるようになりました。

 

この緊張をほどくために、肩や膝を緩めたり、吐く息の長い深呼吸をしたりと、体の使い方でのアプローチをその緊張感に試みましたが、素人の浅はかな考えらしく、あまり効果はありませんでした。

しかしこのトイレにおける、左右と背後の他人から勝手に感じる圧に対する対処の答えは、体の使い方ではなくイメージの方にありました。

 

さてここで、「イメージということで言うなら、自宅のトイレで用を足していることを想像する方が、より落ち着き、より放尿が簡単になるのではないか」という純粋な疑問が湧き出ます。

 

が、結論から先に申し上げると「否」であります。

 

「あなた、いい加減、座ってオシッコしてくださいよ」

「馬鹿野郎!男子たるもの、座りながらションベンができるか!」

 

どの夫婦間でも、あるいは同棲中のカップル間でも聞かれそうなこの類の会話は、言い換えれば、我が家の便器といえども立ちながらオシッコをすることの難しさを端的に表しています。

 

メディアでこの手の話題が挙がるとき、表面張力に屈した撥ねっ返りの方ばかりがフォーカスされますが、実はこの跳弾ではなく発弾が、つまりはオチンチンから発射されたオシッコが、ダイレクトに的を外すことすらあります。

 

朝一のオシッコなんかは特に危険で、寝ぐせや寝ジワ同様、寝起きのイチモツが不可思議にひん曲がっていることがあり、しかしそれに気付かずにしようものなら暴発の可能性大であり、ひどい時には二股に分かれたりもします。

 

これも、おそらくは詳しくないであろう女子の皆様のために言っておきますが、こんな例を挙げずとも、日本の公衆便所の小便器の多くには小さな「的」が描かれています。

おそらくはシールであろうと思われるのですが、アーチェリーのカラフルな的がすごく小さくなったものが、小便器の中央やや下、つまり本来着弾すべき、かつ、おそらくは角度的に跳弾被害の少ない場所に貼られています。

 

受け手(掃除する人)が出し手(オシッコする人)に、被害を最小限にしてもらう努力、働きかけは他にもあり、例えば純粋に「もう一歩前に出てから放尿せよ」といった類の張り紙を、多くの居酒屋や公衆トイレで見ることもできます。

 

ちなみに2010年のワールドカップ時期のロンドンのとあるパブで、アーチェリーの的の代わりに、ミニチュアのプラスチック製のゴールが、上げ底タイプの便器の底中央に置かれてあり、そのゴールバーには紐でボールがぶら下げられており、つまりボールがゴールライン上、ゴールの中央に浮いてある状態であり、そのボールにオシッコが当たれば押されてゴールする、だからここにかけてね、という凝った仕組みの物を見たこともあります。

 

ゴールに関しては少し特殊な例ですが、要は世の男どもにトイレをきれいに使ってもらうために、掃除する側は様々な努力をしている、裏を返せば、悪意の有無にかかわらず、男がトイレをきれいに使用するのは意外と難しい、故に少なからずの努力が必要であり、例えばそれが自宅のトイレであろうとも、それが寝起きしなのバッドコンディションでなかろうとも、便器に尿を放つ以上、最低限「構える」と「狙う」の二つは必要になる、ということになります。

 

ひるがえっておフロオシッコは、後でシャワーが浴室丸ごと洗い流してくれるので、着弾に使う神経はほぼ皆無であり、跳弾に関しては、事後に広い面積を洗い流すものの、最中はやはり気を遣うものでもなく、このように「狙う」の意識の低さはもちろんのこと、「構える」に関してはハナから放棄して“手ぶら”状態であります。

 

以上のようなことから、自宅のトイレよりもシャワーを浴びながらの方が、よりリラックス出来る、という理屈に落ち着くのですが、実はそれ以前に自分で、公衆トイレでの背後と左右からのプレッシャーの中、「自宅トイレ」と「シャワー」のイメージを、それぞれ実験した結果でもあります。

つまり実証済みです。

 

よって、結論は

 

オシッコが出ないときは(心の中で)シャワーを浴びる。

 

海外でのトイレ事情に困っていて、かつ、浴室のマナーがなっていない男性、という非常に狭いターゲットにではありますが、なんだか初めていいことを言った気がします。

これ、ホント使えます。