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DubLog

     

文明の横顔、みたいなもの

国際問題 教育 極論

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最近、暖かくなってきました。

といっても15℃前後程度のもので、寒がりの僕は外出時に上着はもちろんのこと、少し冷えればマフラーや手袋まで装着したりしています。

 

徒歩による約30分の登校中に結局汗ばんできてマフラーを外したりもしますが、それでも上着を脱ぐことはまれです。

白人の方が黄色人種に比べて寒さに強いという話は聞いたことがありますが、且つ少数派でありますが、約15℃の環境下、タンクトップやキャミソールで歩いている人たちを見つけると、毎度のことなので驚きはしないものの、考えさせられるものがあります。

 

日本の小学生がやせ我慢して冬でも半袖で登校する感覚に多少重なる部分もありますが、彼らの場合はなかなか上がらない自国の気温を憂慮して、この程度の暖かさでもまだマシ、とここらで早めに手を打って、訪れた微妙な温暖を無理矢理楽しんでいる感があるのです。

 

考えてみれば文明というものはこの「無理矢理」、あるいは「無理」をすることで成立してきたのかもしれません。

「不自然」と置き換えてもけっこうです。

 

パソコンにどっぷり頼った自分の生活スタイルを棚に上げて、僕は事あるごとに自分のことを自然派、自然体派であると主張していますが、物理的に自然を壊した地面の上に、もしくは不自然に海を埋めた地面の上に、「不自然」を建立して出来た文明や科学の恩恵を受けていることを、忌々しくはありますが認めています。

 

また、ロンドンという土地柄、そこで出会ったファッション業界に従事する知人が僕には何人かいますが、例えば自分の中では不要と思える過剰なファッションにおいても否定することはありません。

 

あるいは経済世界の勝ち負けにおける資本という純利的な正義は、人間の人生における美徳や美学、幸福とはまた別物と考える僕は、マネーゲームにおいて何も生産せずにお金を増やす人たちの世界観を、しかし蔑視はしません。

 

ただし、「不自然」に振る舞ったそれらの無粋に対する好き嫌いは自分の中で自覚しています。

つまり、科学のおかげで都市が発展しようが、服やお金が他の動物と隔てる目印になっていようが、そもそも僕は人類を生物界において最もダサい代物である、という究極の自己否定心、いい言葉で言えば究極の謙遜が少しばかりあるので、動物界から見る「不自然」に起源した文明に対して、あまり誇りを感じていません。

 

とはいえ人間が作り上げたこの文化、文明が起因しているであろう“風潮”に対して同意しているものが二つほどあります。

 

一つ目は弱者に対する思いやりです。

 

動物界においては強い遺伝子を残すために、弱者として生まれた、あるいは弱者になった個体は淘汰されていきます。

発展した人間の文明社会ではこれをしません。

例えば戦場に軍隊を送り込んでいることが多少なりとも関係しているのでしょう、イギリスでは車椅子生活をしている多くの障がい者を見ることが出来ますが、彼らに対する公共の交通機関のシステム同様、社会の彼らに対する扱いが、完成に近いある一定のレベルのところまで達しているように感じます。

 

身体能力的に難しいことに対しては慮る、しかし人格的な部分に対しては同等に扱う、と言った公平さがそこにあり、それゆえに健常者と車椅子の人がストリートでFワードを使いながら怒鳴り合っている、なんて場面にもかつて何度か遭遇しました。

 

自国の批判はあまりしたくありませんが“臭いものには蓋を“という文化のある我が国では、身体障がい者に対して物理的にも心情的にも過不足ない付き合いの一般化がまだ達成されていないように感じます。

 

これは、ヨーロッパのテレビドラマでは、とても食事しながらは見られないような、リアリティー溢れる(と思われる)詳細にこだわったエグい死体が出てきたり、60代くらいの俳優のキスシーンなんかが当たり前のように見られることに対して、日本ではそれらは回避されがちであるところにも何か通じるものを感じます。

 

文明が作った、同意できる二つ目の風潮は、差別に対する反対心です。

 

動物界では差別以前に、縄張り意識や外来種に対する警戒心から、よそ者の侵入、侵略に対して危機感を覚えることもあります。

人間界においても自国民の純粋な血統と文化の保守を理由に外来を忌み嫌う人は各々の国や地域において一定の割合で存在しますが、基本的に文明の発展した先進国では人種差別を、少なくとも表向きは“悪し”としています。

 

“表向きは悪し”とは言わずもがな、本心がどうであるかにはかかわらず、差別心を他者に分かるように表現をしてはいけない、ということです。

 

差別用語の使用頻度が、そのまま差別心の度合いに比例するかは甚だ疑問であることは、以前にも述べましたが(自然、この上なく不便で堂々としたもの 2 - DubLog)、サッカー界においても人種差別は根強い問題であり、僕がロンドンで生活していた頃、ウルグアイのラテン人がフランスの黒人に人種差別発言を行ったという、その真偽や処罰に対して物議をかもすことになる事件がプレミアリーグで起こりました。

 

本人は「スペイン語と英語のニュアンスの違いで、差別の意図はなかった」という主旨で否定をするのですが、僕が思うにこれは正確には言葉というよりも文化や地域性の違いであり、少なくとも僕が住んでいたロンドンでは黒人を「黒人」と表現することそのものに対してもタブーな状況が多い一方、ブラジルでは差別的なスラングで表現することに対してすら、良しとしないまでも大らかな心構えがありました。

 

郷に入っては郷に従えという言葉はありますが、この文化や心構えの違いに対して相互理解や歩み寄りではなく、一方が一方に対して有り方を順応させる、あるいは正すという流儀の中に、「先進国」、「大国」という名にあぐらをかいた横柄さのような含蓄というか他意を感じてしまうのは、少しひねくれすぎでしょうか。

横柄さという表現が悪ければ、自分たちの考えを受け入れない、という考えを受け入れない、という傲慢さでも結構です。

 

異なる思想や宗教、文化、アイディア、イデオロギー等々が生じた時、暴力で解決しないためには、過半数の支持を周りから得るために営業力が必要になり、ハリウッド映画が成功した”アメリカの素晴らしさ“の売り込みに代表されるように、広報の力をつけることは有効的、というより民主主義社会においての正義としているようにさえ映ります。

 

例えばかの国が受けたテロ行為は卑劣な「悪事」で、それに対する報復の戦争行為が「正義」になるという考えは、立場はもちろんのこと、受けた情報によっても当然賛否が分かれ、定義がひっくり返ります。

 

暴力同様、情報操作や宣伝、ルール化による異質に対する押さえつけは、結局のところ、資本的な損得かプライドに関わる勝ち負けが根底にあるように思うのですが、悲しいかな、戦争はたいていの場合これらのせいで起こり、人間から損得勘定やプライドというものが無くなるようには思えず、ということはこの世にとって戦争というものは不可避な「とどのつまり」であり、なかなか死なない慣習なのかもしれません。

 

ということを考えた場合、実は我々スポーツの指導者の世界平和実現における役割というのは結構大きいものであって、勝ち負けよりも、金メダルの数よりも、戦い方そのものの方に価値を求める働きかけが必要なのかもしれません。

 

よくプロや代表のスポーツ選手が言う「勝ちにこだわる」というコメントをメディアを通して聞きますが、本来、プロや国を代表する人間こそ戦い方、つまり姿勢にこだわった方がいいのではないのかと僕は疑っています。

 

勝ちにこだわるのは子どもにも出来ます。

というより彼らはジャンケン一つをとっても、一日分の熱量をここで消費しているのではないかと思えるくらい気合を入れます。

そして幼い分、自身の成長を勝ち負けという指針がないと実感しづらい生き物でもあります。

 

プラス、勝ち続ける個人も組織も存在しないという事実に鑑みると、勝ち負けに重心を置いた場合、善悪が簡単にひっくり返ってしまうことに対して、怒りや悲しさというよりつまらなさを感じてしまいます。

「勝てば官軍」こそが繰り返されてきた世界の歴史が示すアイデンティティの一つと言えども、です。

いえ、だからこそせめて「スポーツは」、あるいは「スポーツから」と思うのです。

 

というような考えから、プロや代表だから、というわけでなく、ある程度の年齢からは勝敗よりも内容に正義を置いたスポーツマンたちが増えたら、世の中に幸せな人生を生きている人間が増えるのに、と思うのですが、一方でファッション的には「勝ち負けが全て」の勝負哲学の方が、ある年齢層や一定数の人間にはウケがいいということも知っています。

僕自身もそういうのを好む選手でした。

 

そして異質を押さえつけない平和な社会構築のために、その考えも受け入れなくては、というパラドックス、というかジレンマがここに存在します。

 

結局はバランスの問題、という落ち着きのいい言葉に逃げたくもなりますが、この便利なフレーズは落ち着きがいいだけあって、それ以上の思考を必要としない、良くない意味での特権をはらんでいます。

 

実は人類をダサいとしながらも「弱者への思いやり」と「人種差別反対」の二つに同意していることに、自分自身の偽善を疑っているのですが、それと同様に、ジレンマを感じつつも止めずに思考し続けるのが、言葉を持った文明社会に生きる我々人類の大きな野暮であり、しかし楽しみでもあり、またノルマなのかもしれません。

 

道具を使うようになった我々人類が「不自然」を作るようになるのも自然の成り行きだったのかもしれないと、いうついでの言い訳により、より混乱必定になりますが、いつか叶えられるかもしれない世界平和を夢見ながら、まずは“隣人に笑顔であいさつ”を続けていきたいと思います。

 

俺の一票じゃ世の中変わらない、なんて言わないで。