下手なデートのしかた
最近ありがたいことにデートの相手をしてくれる友人が何人かいます。
数年前、サッカーの指導だけでは食べていけず、某通信会社で夜勤の副業を始めた時、研修役の40代後半のナイスミドルが結婚観というか結婚プランについてこんなことを語っていました。
「女の人と違って(出産の)年齢に関する心配がない分、男は楽だよ。だからきちんと貯金してね、『年の離れた相手でも大丈夫』って30代の女のコなんて結構いるから、50過ぎたらそういうコと結婚するの。ちょっと高めの保険にも入ってあげてね」
当時30代後半だった僕はこの言葉にえらく勇気づけられましたが、結婚する時にそこそこの生命保険にきちんと入ってあげられるか、つまり50歳までにそれなりの財を成していられるかに関しての疑問は棚に上げました。
逆に言えば心配事は金銭面だけだったのですが、この話を後年、知人のアバズレにしたところ、それ以外の面でも推測される様々な苦労と不都合を「なめるな」という姿勢で語られましたが、まあまあ憂鬱になっただけで、その内容はよく覚えていません。
「子どもの運動会で若いお父さんたちに混ざって一緒に走らなくちゃいけないんだよ」
というセリフだけは覚えていますが、この件に関してはその段階で既に手遅れだとも感じました。
好みの問題は置いておいて、研修役のナイスミドルは、雑誌LEONに出てきそうな、ちょいワルをはじめとする垢ぬけたファッションを身にまとい、一応ドレスコードのあるその会社の常識を無視して、ピンクの短パンで出社することなどもあったのですが、見た目の印象通りそこそこ女性にモテる彼は女性との関わり合いに対して
「若い時はやっぱりどうしても下心とかあったけどね、この年になるとホント、カッコつけてるわけじゃなくて、女のコとデートするだけで、一緒にいて話をするだけで楽しい」
と言っていました。
彼の「若い時」は何歳くらいのことを指しているのかは明らかでありませんでしたが、当時まだ30代だった僕は、女性とのコミュニケーションに対して既にこれと同じ感想を持っていました。
かつて営業や交渉の職に就いていた頃、その大まかな基本スタイルは「押し」でありましたが、こと女性との付き合いに関しては日本人男性特有の甘えっ子スタイル、「待ち」が多かったような気がします。
こののん気な態度が「話をするだけで楽しい」感想を持つのに一役買っていたのかもしれません。
さて、冒頭にも述べましたが、最近デートの相手をしてくれる女性がありがたいことに何人かいます。
デートとは少し大げさかもしれません。
一緒にパブで飲んだり、スクリーンでサッカー観戦したり、ピクニックに行ったりしてくれる程度の相手です。
女性との関わり合いに関してのありがたみは当然、30代後半のあの頃から大して変わっていないので、いや、あの時以上にへりくだった姿勢で対峙しているので、話に付き合ってくれる女性には感謝しています。
その女性たちの話の中で、最近気が付いたことがあります。
それは、彼女たちに映る僕のキャラクターが「前向き」という文字通りポジティブなものである、ということです。
自分で自分のことを、「前向き」というような凛々しさを感じるようなものではなく、似て非なる「夢想的」や「理想主義的」、つまり世間一般からの評価としてはネガティブなものであろうと考えていたのですが、例えば過去の失敗や事故に関しての経験談をするときに楽観的な笑いを誘おうとすると、中には
「何でそういうふうに考えられるの?すごい」
と称賛をくれるコまでいます。
つまり、取りに行った笑いは見事失敗、スベっています。
基本、褒められることに慣れていない僕は女性のこの態度に、照れを感じてしまうのですが、単なる謙遜とは別に、違和感のようなもどかしさも感じてしまいます。
違和感を持つ理由を端的に言えば、「そういうふうに考えられる」ことが、実は全然「すごくないから」であります。
僕の価値観の中で、他者に対して「すごい」という感想を持つことと言えば、例えばスポーツにおける身体能力や芸術における発想などの、成功者が備えている生まれつきの才能であったり、それらを成長させる努力を持続することが出来る、マインド面の非凡さであったりします。
翻って、ただ単に「前向きである」という個性、あるいは前向きな考えを持てるという「能力」と呼んでいいのかよくわからない能力は、持って生まれた身体能力や発想力と違って、実はただの二次反応であると考えています。
分かりやすく例えるなら、冷風を浴びて「寒い、辛い」と感じるのが一次反応。
「でもこれのおかげで寒さに免疫ができて体が強くなるかもしれない」という考えを持つのが二次反応。
専門分野できちんとした学術用語がありそうですが、すみません、思いっきり素人の経験談と素人目線の持論で語っています。
つまり僕の「ポジティブ」は技術から発端したポジティブであり、悪く表現すれば、そこに初めは作為があり、今現在の「前向き」に至るまでには経験から来る打算と利便性が絡んできたという経緯があります。
かくいう僕も10代の頃はひどい悲観主義者でした。
俺ほど努力している者も、俺ほど苦労している者もいない、と思い上がっていた独りよがりの少年でした。
15歳の時に読んだ「あしたのジョー」の中で、金竜飛とのファイトのリング上でジョー兄ぃが言った
「何も戦争の悲惨さだけが絶対じゃねえ。自分から選んで地獄を経験して克服した男がいたじゃねえか!(力石のこと)」
という、正確性には思いっきり欠けますが、戦時中の疎開を経験している原作者と、終戦を確か満州で迎えた作画担当の、どちらかが主人公に言わせたこんな感じのセリフがあり、これが僕の悲劇のヒロイズムにまるで免罪符を与えるかのように、背中を押しました。
勝つための闘いではなく終えるための闘いと感じ始めたのもこの頃で(働くということについて - DubLog)、他人に感謝もせず、自分の幸運に気づきもせず、喜びよりも怒りをエネルギーに変えるタイプのモチベーティングで自分を駆動させてもいました。
夢破れてブラジルから帰国した次の年に、行き先を決めずに千葉から車を走らせて、それのせいで辿り着いた宮崎で、十数年ぶりに祖父と再会することになるのですが、その時に実際に戦地に行った祖父から戦争の話を直に聞き、些細な事で苦労自慢の態度を持っていた自分のショボい人間性に、「逆によくこれで持ってたな」感を味わいました。
ものすごく行儀の悪い思考ですが、尽きることのない不幸自慢や苦労自慢の唯一行きつける先に、正否はまた別として「結局戦争にはかなわない」という印籠がある以上、“自分の人生の大変さを人に説く”という無意味なだけでなく、時に嫌がらせにすらなり得そうなこの不躾な振る舞いに、我ながら間抜けさを感じ、遅れてきた21歳くらいの青春時に、やっと常識的な態度を持てたということです。
以降、かつての自分のような、男女問わず苦労自慢を語る、そのくせそんなに努力をしているようには思えない人達に出会うたびに、その非魅力を何度も思い知り、他人の癖見て我が身を振り返るようになりました。
そして悔しさや怒りのみを動力にした努力には肩に力が入りすぎるが故の姿勢のアンバランスや不健康を感じたので、それからは掌を返したように「苦労知らず自慢」をするようになりました。
つまり「ポジティブの方がカッコ良さそうだ」という打算と「健康的に暮らせそうだ」という利便性のような動機によって、僕は一次反射でネガティブな感情を持った敗北や失敗や事故でも、その中から、もしくはそれのおかげによって起こり得る未来の中に、ポジティブなポイントを探し当てているのです。
僕は過去に笑い方を直したこともあるし、英語スピーキングの正しい癖付けは今も尚取り組んでいるところですが、これと似たようなもので、最初はその考え方に作為があったとしても、それが習慣化されれば自然と自分のフォームになっていきます。
運動における身体の動作フォームの築き方と一緒です。
もちろん、いくつになっても別れは悲しいし敗北は悔しいし、結局は分析は出来てもコントロールが難しい類の話ではあるのですが、年を取って萎えてきたからというわけでなく、先述した通り積み重ねた習慣によってその悲しさや悔しさを、いくらかは緩和してそこに幸運を見つけることが出来るようになってきました。
ところで僕は高校時代、よくブルーハーツの歌を聴いていました。
彼らの楽曲の中に、ギタリストの真島昌利作詞作曲の「年をとろう」という大好きな歌がありました。
過ぎて行った時が まるで永遠に続く
土曜日の夜ならば 今日は何曜日なんだろう
僕はこの歌の出だしのこの部分を聴いて、
「最初っから土曜の夜って分かってたら、じゃあ、いったいどうやって今を生きるの?」
と、さすがはティーネイジャー、この素敵な歌詞に、大好きな歌であるにもかかわらず、年寄りの慰めのような鬱陶しさを感じていました。
僕は、例えば失恋などに沈む青春期の少年少女に対して、今の「絶対」は人生全体の「絶対」ではない、という大人の励ましを嫌うタイプの子供であったのです。
今現在の楽観主義の姿勢は、この時の少年の態度から大きく様変わりしているように感じるかもしれませんが、実際は違います。
二つの相反する好みが自分の心に同居しているだけの話です。
そしてこれのおかげで、一時反応でネガティブな感情を持ち得る何かしらの事件が我が身に降りかかった時、ネガティブな執着を上手く手放せてそこに幸運を見つけるも良し、手放せなくて今を生きるも良し、というどちらに転んでも自分の人生を咀嚼できるありがたい状態になっています。
結局は楽観的なお話です。
という長い話を、もちろん「すごい」と言った女性に話すわけもなく、一応「死んじゃう、とか取り返しのつかない不運は別として」と前置きして
「みんな、攻略が簡単すぎるテレビゲーム、嫌いでしょ。ちょっとくらい難しかったりトラブルに巻き込まれる方が好きでしょ。それと一緒」
とゲーム嫌いの僕が「ゲーム」を比喩に持ち出して言いくるめようとしました。
が、ひょっとしたら貧しさが理由でギャンブルもゲームも自分の日常の上で楽しもうとしているという魂胆が見透かされたかもしれず、彼女の反応は、今イチ納得がいっていない感じでした。
ちなみに余談かもしれませんが、この話が挙がったのは海でピクニックを楽しんだ後の帰り道のことで、ビーチで簡単なスナックとビールを楽しんでいる時、そこで小さな事件に遭遇しました。
海辺には散歩中の人間と犬が多いのですが、確か犬を飼う前にブリーダーかなんかのところで躾の訓練を受けなくてはいけない、という法律がこちらの国ではあるとかなんとか、裏は取っていませんが、いずれにしても街中ですれ違う犬も含めてほとんどの犬は行儀が良すぎてあまり面白くありません。
ところがその時、砂浜の上でくつろいでいる我々に対して、一匹のゴールデンレトリーバーが烈火のごとくのダッシュで向かってきて、直前で「伏せ」をしました。
言ってみれば砂の上でヘッドスライディングをかまされたようなものです。
当然、我々の服やカバンに砂がかかり、食べかけのスナック菓子の袋の中にも砂がたくさん入り、更には飼い主に呼ばれて僕の脇を通り抜けた時には飲みかけのビールを倒し、僕のズボンを濡らしました。
超のつく犬好きである僕は、彼が伏せをしているときにいっぱい撫でさせてもらえたし、何よりかわいかったので、このレアケースに大満足しました。
そしてゲームの例え云々のところでは今イチの反応を見せる彼女も、この一連には不運よりも幸運を感じているように見えました。
と思っているのもひょっとしたら僕だけで、これも僕の楽観主義が誘引した独りよがりかもしれませんが。