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人類史上最大の発明

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今日も犬のフンを避けながら、語学学校のフリークラスに行ってきました。

だいたい自分の生活のリズムに合わせると、教会の€1クラスやミートアップ同様、参加する学校も固定されてきます。

 

今日行ったところもこれまでに何度か参加経験のある学校です。

 

ちなみに今日のテーマはinvention(発明)。

例のワンパターンの授業の運びです。

日本人という外国人 - Dub Log

 

車輪 電球 テレビ ラジオ 電話 PC 飛行機

 

「この7つの発明を重要度の高い順に並べて、それをクラスメートと議論しなさい」

というのが、今日の最初のトピックでした。

 

前述のとおり、僕はクラスメートたち(特にラテン人)がどのように答えるのかを、だいたい推測することが出来るのですが、今回も予想通り、両隣りのスパニッシュとターキッシュは「PC」を最重要に、「車輪」をその反対に選んでいました。

 

実際に自分がどういう生活を送っているかは思いっきり棚に上げて、僕は自然界に生息するものを人間より崇高なものであるとみるフシがあり、人間界においては自然とともに自然体で生きる人たちを尊敬している嫌いがあります。

 

ここで言う自然体は性格のことではなく、生活様式のことです。

 

自然界の時間に無理なく沿って、日昇から日没までの時間を労働の基本とし、無駄な儲けや蓄えを考えず、その日食べる分だけの食事を獲ってくる、という、理想のライフスタイルです。

 

よって「車輪」や「電球」はギリOKとしても、それ以外の発明は重要性について疑問符がつくところであります。

 

Callan Methodという語学勉強法を経験した人はご存知かもしれませんが

「100年前の人々に比べて、現代の人々はより幸せか」

という質問が各ステージにちょいちょい出てきます。

 

僕はSkype英会話のレッスンでCallanを経験しましたが、この質問をされる度に

「100年前より便利になった。でもより幸せにはなってない」

と答えてきました。

 

便利さと幸福には因果関係が無いという月並みな主張ですが、日本人を相手にしているスクールであるのにもかかわらず、Skype越しの多くの講師が「初めての意見だ」と言っているところに、無駄に話を広げたくない日本人英語学習者の行儀の良さようなものを見ました。

 

今ではこの「便利になった」にさえ、かなり懐疑的で、スマホ一つで必要な情報が必要な時に手に入るこの情報化社会では、むしろ情報を保有する(溜めておく)ことそのものの価値が無くなったのではないかと僕の目には映ります。

 

同様に時間短縮における便利さに関しても「〈アイツ〉が時短ツールを手に入れて作業や移動の時間を短くした。〈アイツ〉に比べて俺は不便」という逆説の方が僕にはしっくりきて、いずれにせよ便利感とは相対的なもので、「周りの便利な人たちに乗り遅れてしまったから不便」もしくは「不便になりたくないから乗り遅れたくない」という強迫観念がいつも同伴しているような気がするのです。

 

分かりやすい経験談でいうと、昨シーズンまでお世話になった職場での連絡手段は、基本、ラインでした。

その職場と契約する直前まで、折りたたみの、しかもプリペイド携帯を使っていた僕は、これだけが理由ではありませんでしたが、これをきっかけにスマホに買い替え、慣れないラインを使うことになります。

 

便利な何かが発明されて、ある集団の中でその何かの利用者が過半数を超えたとき、それ有りきの生活が市民権を得ます。

 

民主主義の世の中の多くは多数決で動いているので、「大勢の他者より便利」だった少数派が数を獲得して多数派に逆転した途端、集団の行動様式はそちらを基準にしたものに移行され、「あって便利」だったはずの発明が「普通」になり、無い人にとっては「無くて不便」になるのです。

 

これが相対ではなく絶対であったら、便利さは人間に気持ちにも時間にもゆとりを与えるのでしょうが、少なくても日本ではそうでないだろうことは、以前述べたとおりです。

もう一つのデフレ - Dub Log

 

思えば僕は野心バリバリの十代のころから

「成功者は皆、口をそろえて『時間はどれだけあっても足りない』と主張する」

という言葉にいつも違和感を持っていました。

 

資本主義社会における成功が、政治と経済(権力、名声とお金)を主に指すかどうかは別としても、彼ら成功者の「成功」が数の勝利、あるいはゲームの勝利を意味するのであれば、この言葉には納得がいきます。

 

ただ、一方で

「足るを知る」

という言葉が示唆する通り、他者との競争における勝利より、自身の中における「納得」を「人生の成功」とするならば、成功者は過不足ない時間を過ごすのではないか、と思ってしまうのです。

 

これは、個人的にはこちらの方が遥かに難しいと思っているのですが、他者との闘いよりも自分との勝ち負けの方が大切、という一定の理にも通ずるものがあります。

 

こんな人間が勝ち負けの世界に生息していることに、我ながら大いなる違和感がありますが、一方で、価値ある希少な存在かもしれない、とやはり我ながら肯定してあげたくもなるのです。

 

んー。英語上達が目的のレッスンが、いつの間にか自主、自発、自己啓発に。

フリーレッスン。

ただより高いものは無し。

 

とまあ、こんなことを考えてしまったのですが、この独善的な説教臭さは下手すりゃ日本人の国民性というものに誤解を生み、祖国をはじめ、全世界で真面目に生活する崇高で繊細な日本民族の皆さんに迷惑がかかると思ったので、とりあえず

「おまえがパソコンで予約したフライトの飛行機も、車輪が無いと飛べないぜ」

とだけ言っときました。

 

そういえばロンドン時代の学校で、似たようなトピックに出会ったとき

「歴史上最も重要な発明は『神』だ」

という有名なジョークがあることを聞きました。

 

なるほど。

人間の理解や能力の範疇を超えたものに言及したいとき、いるかいないかはわからないけど、神は要ります。

 

宗教家には悪いけど、僕はこの手のウィットに富んだジョークが好きです。