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若さを保つ秘訣

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語学学校に通い始めて4週間、毎日出される宿題を一度もやってきたことが無く「宿題を絶対にやってこない人」という不名誉な認識をクラスメイト達から持たれたことを省みて、先々週は月、火、水に出された宿題を3日連続でこなしました。

みんなビックリです。

 

それが祟ったか、木曜の授業が終わったあたりから体調を崩して、翌日より一週間以上の欠席をしました。

イミグレーションオフィスが定める出席率のボーダーを考えると、この先の3カ月間は一度も休めなくなります。

 

慣れないことをすると体調を崩すというのはよくあることで、二十代になってからボクシングを始めたときには、その当時僕の体を診てくれていた東洋医学の先生にもあまりいい顔はされませんでした。

実際に、運動中の姿勢がそれまで経験してきたどのスポーツの物とも大きく異なっていたことが影響したのか、胸部に嫌な突っかえを感じ、ひどい時には痛みが出るほどでした。

 

気疲れという言葉があるように、不慣れなことに対する挑戦や”らしくない”ことの選択をすると、肉体疲労からだけでなくマインドの面からも何かしらのサインが送られて体調に影響するのかもしれません。

 

根が体育会系なので、徹底したスケジューリングによる自己管理を試みることもしょっちゅうあるのですが、「習慣化するにはそれを28日間続ける(人によってこの日数の主張は異なる)」という教訓よろしく、実際に28日間の継続に成功したことも何度かあります。

僕にとっては仕事よりも主に勉強や学習の話です。

 

しかし不思議なもので、達成して「よし、これで俺も怠け者から脱却した」と流れに乗ったと思ったとたん、例えば出張など、物理的に数日間それから離れざるを得なく、また元の怠け者に戻って一からスタートする、ということを繰り返してきました。

 

そして、もっと不思議なのは公私ともに障害になる予定が何も無く、28日どころかその倍以上の期間マジメっこになれる、という時にも、途中で必ず大きく体調を崩して、元来が甘えっこの性格の僕にサボるための言い訳がプレゼントされます。

 

今回はわずか3日でベッドに潜り込むことになったのですが、この不調の原因になった(?)宿題以外の“慣れないこと“や”らしくないこと“について、治りかけの日曜日、「病は気から」と思い立ち、好天気のダブリンを歩きながら考えてみました。

簡易な振り返りみたいなものです。

 

「病は気から」という大義名分の元、とりあえず“治った”とマインドコントロールする意味も含めて、つまりは覚悟の意味も含めて、30分ほど歩いたところでパブで一杯ひっかけます。

こんな晴天の日にはやはりみんな日光浴を楽しんでいるのか、広い店内は閑散としていて、無音声のF1がスクリーンに寂しげに流れていました。

 

F1には全く興味が無く、ルールも、映像を観ただけでは順位も把握できないくらい、明るくないジャンルのイベントですが、録画なのかライブなのか、ちょうどレースが終了したところらしく、表彰を終えたドライバーたちがシャンパンファイトで賑わっています。

 

無音ながらも伝わってくるスクリーン上の熱狂やら興奮やらを眺めて、「休憩期間」と称してしまった自分のアイルランド滞在と照らしながら、「夢中になる対象が無い状態が長く続いていること」に慣れていないのかな、と疑ってみました。

泡を飛ばしながらはしゃぐドライバーをぼんやり眺めている自分を俯瞰視して、

「つまり俺はふてくされているんじゃないか」

と。

 

しかしブラジルから帰国後の数年間の燃え尽き症候群的な怠惰な生活を省みた時、あの期間が決して精神的に不健康だったとは思えないし、何より身体的にこれほど高い頻度で調子を崩していなかった事実に鑑みて、ひとまずこの案は却下です。

 

そんなぼんやりとした感想を持ちながら、スクリーンに映る大会関係者らしき二人の女性の立ち方が気になって、男女の違いについての思考に移った後、その思考を遊ばせながらパブを後にしました。

 

そして今度はカフェで買ったコーヒーとお菓子を持って公園の噴水でくつろぎます。

 

噴水の淵も芝の上もベンチの上も、カップルや家族連れや友人同士で日光浴を楽しんでいる人たちでいっぱいで、お一人様はやはり少数派です。

 

その少数派に対して思いを寄せたときに、少数派であることよりも恋人がいないせいで充実していないと仮定したダブリン生活を、気から祟った病の原因にこじつけてみました。

 

恋愛が経済を好転させるのと同様、個人の人生をも満たすものになり得る、という理屈です。

 

しかし中学時代、サッカー部のキャプテンでありながらもバレンタインでの成果で0という数字を記録した、僕が知る限り唯一の代のキャプテンであった僕は、これ以外にも非モテの自分史が示す通り、彼女がいない期間というのは決して珍しいものではなく、そもそも一人が苦でない僕にとっては、お一人様の方が自分らしいと言ったら自分らしいのかもしれません。

という思いに至ってこれも却下です。

 

となると原因は「気」ではなくむしろ習慣の方にあるのではないかと思えてきます。

今度はその、変えた、あるいは変わってしまった習慣について考えながらビーチに向かって歩きました。

 

ただ、それを考えたときに、習慣以前に住んでいる国も使っている言葉も去年のそれらとは大きく異なっているし、そもそも安定することに対して不安定を感じるタイプの人間である僕は、変化しないことに対して恐れを感じるタイプでもあります。

 

矛盾してないことに矛盾を感じるというか、ピサの斜塔は斜めだから成立している、という“定義”よりももう少し説得力はない、がしかし魅力はある“美学”とか“正義”とかいう類のものに対する感情です。

 

ということで、変化したものを数え上げたらキリがないので、mustやneedからではなく、「好き」なのに何らかの理由でやめてしまっている習慣や行動について考えてみました。

 

以前にも書きましたが気持ちが落ち込んでいるときの回復作業として

掃除 料理 ウォーキング 適度な運動

を個人的には効果のあるものとして挙げられます。

ウォーキングを適度な運動に含めていないのは以前にも述べたとおりです。(なしなしのあるある - DubLog)

 

そしてウォーキング以外の運動、つまり「適度な運動」にカテゴライズされる運動をダブリンに来てから4か月間、一度もしていないことに気付きました。

こんなことは「ブラジル後」以降の約20年間で初めてのことです。

 

ちなみに僕が分類する「適度な運動」は大抵ジョギング、水泳、シャドーボクシングのどれかなのですが、ランニング用のクッション性の高いシューズは日本から持ってきていないし、プールはお金がかかるしそれよりどこにあるか分からないし、何より体をシェイプさせるのにはボクシングが一番手っ取り早い、という経験上のデータを考慮して、今週から週1、2回、シャドーで汗を流すことにしました。

あの当時の先生には反対されたボクシングですが。

 

ジョグで公園まで移動する時間やステップワークだけの時間も含めて実際のラウンドと同じく3分-1分(ブレイク)のサイクルでだいたい10ラウンドくらい行うのですが、問題は洋の東西を問わず、いい年して公園でエアー相手に必死にパンチを繰り出している姿を人に見られることが結構恥ずかしいということです。

 

とはいえ平日の昼間からサッカーボールを蹴っていたあの時同様(働くということについて - DubLog)、結局はやってのける自信があり、おそらくはこういった心構えのようなものが若さの秘訣の一つになっているのではないかと前向きに捉えています。

 

若いことが必ずしも良いことではないのですが、少なくとも自分は精神的には幼いということを考えると、そもそも幼いことに対してあまり引け目を感じずにハズいことをやってしまう、というハズいところが僕にとっての「自分らしさ」や「慣れていること」なのかもしれません。

 

やっと着いた海辺でジョギングに精を出すダブリナーたちに感化されたのか、「健康は人生不変の正義」という言い訳も持ちつつ、知らない人のずぶ濡れの犬を撫でながらこのように自分を正当化してみましたが、その後の帰路は二時間の徒歩、という適度でない運動をこなしたところからの、週のスタートでした。

 

根拠はありませんが好転の気配がします。

 

あと、宿題はもうやらない、に決めました。