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ソッチの山を眺めながら

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僕が現在住んでいる所はテラス型の2DK+狭いウェイティングルームという間取りの家で、そのうちの一つの部屋にゲイのブラジル人が、もう一つにクロアチア人と僕がシェアして住んでいます。

 

2部屋ともに日本風に言うと三畳あるかないかくらいの非常に狭い部屋で、僕らの部屋の方は二段ベッドでその狭さをやりくりしています。

 

しかしこの家全体の特筆事項は部屋を始めとする各場所のスペースの小ささではなく、まるで専門学生がやり直し覚悟で期日を守るためだけに提出した宿題の設計図を基に建付けをしてしまったかのような、様々な不備があることです。

 

先ず玄関の鍵がチョー固い。

入居前のビューイングの時にブラジル人が

「コツがあるんだよ。鍵を回しながら同時にノブを回して、こうやって・・・」

と見本を見せてくれたのですが、言っているそばからそのコツが何の効力もないことが分かるくらい苦戦していて、腕力と我慢強さの類で開けるタイプのドアだということを察知しました。

おそらく中学生以下の日本人女子では開けられないくらい強固なドアは、僕の前腕の筋トレにはちょうどいい塩梅です。

 

次にダイニングキッチンのドアが壁の幅木につっかえて閉まりません。

聖歌クラブに所属するブラジル人が練習のために歌うダイニングでの歌声が、夜勤明けのクロアチア人の睡眠をしばしば妨げます。

 

そしてカウンターの下にジャストサイズではめ込まれている洗濯機の洗剤注入口となる引き出し(ヨーロッパの洗濯機にはこういうタイプが多い)が、L字で隣接するシンク下の収納扉につっかえて開きません。

洗濯をするたびにドライバーでその扉の蝶つがいをいちいち取り外しています。

 

更に換気扇の排気口が、換気すべきはずのダイニングキッチン内に位置しています。

おそらくは後付けで設置された大型換気扇は通常のものと同じようにその吸気口がクッカー上に鎮座していますが、そこから低い天井までのわずかな長さの配管の途中に排気口があり、天井から外に抜けているはずの配管それ自体は、実は天井までしかないダミーです。

吸気口から吸い上げられた煙や匂いがわずか数十センチの上昇後、再び部屋に戻ってくるというユニークな造りになっているということです。

よって調理時には中庭的な小さなスペースに続くガラス扉を毎回開けることになります。

 

そして極めつけは、何故かブラジル人の部屋を通らないとユニットバスに行けない仕組みになっています。

本人は「気にするな」と言ってくれていますが、深夜に尿意を催したときなどはやはり申し訳なさから「少しでも小音で」と思い、尿が便器内の水面ではなく陶器に当たるように小細工をしています。

 

もっとも彼には訪問者が多いので、来客があるときには時間帯関係なく彼の部屋を通るのに気を遣うことになります。

 

前述のとおり彼はゲイです。

30代半ばの彼は特定の恋人というものを今は持っていないらしく、たくさんの紳士たちと戯れている様子ですが、その全員が結構年上です。

 

覚えているだけでも5人以上のジェントルメンに僕もお会いしましたが、そのうちの一人は確実に還暦を超えていました。

 

この嗜好を何センと呼ぶのかは別にどうでもいいですが、不特定多数の男色家に囲まれた彼のステイタスをヤリチ〇と呼ぶのかヤリマ〇と呼ぶのか、こちらはちょっと分かっておきたいところです。

無垢な興味本位からですが。

 

上等な化粧水や乳液を使っているのか、漆黒(彼は黒人)のお肌は年齢よりも若く見え、フェミニンなファッションとか内股な歩き方や可愛らしい喋り方から、掘る方か掘られる方かで言ったら、彼は主に「られる」方ではないかと僕は勝手に予想しています。

彼らの言葉で言うところの「ネコ」です。

 

となるとそこまで活躍の場が無い男性生殖器を指して「ヤリチ〇」と呼ぶのは濡れぎぬに似た罪悪感があります。

一方、服の上からですが、外見からうかがえる限りでは体に一切の着工が無い彼が「マ」の方を持っているとも思えず、こちらは詐称に近いものを感じます。

 

となると「ヤリアナ」と素直に呼ぶのが平和裏に終結する折衷案のような気がしますが、南米人の友人が多い僕としてはその語呂の類似性から、何人かの「Juliana(ジュリアーナ/フリアーナ)」たちに対するバツの悪さを覚えてしまい、そう呼ぶのに気後れしてしまいます。

 

数ある引っ越し先の中で最もピュア(≒アホ)が多かった土地の一つ、茨城のとある新興住宅地には、その土地の言葉なのか肛門のことを「ケツメド」と呼ぶ友人が数名いました。

小6くらいの時、その内の一人が言った

「ケツメドに髪のケ、ツメンド(『髪の毛、詰めるぞ』の意)」

という、当時の僕にはバカ・パク、10・9くらいのダジャレで大笑いしたのを覚えています。

 

ということで、トイレのために経由する時の彼の部屋が熱っぽいところとか、彼自身が火照ってるところとか、ダイニングから「中庭」越しに見える彼の部屋の窓ガラスがよく曇るところとか、来客時にしょっちゅうガウンを着ているところとかから、彼がお盛んなこと自体は間違いないようなので、今後彼を「ヤリメド」と胸中で称賛して取り扱う、という落としどころに決着します。

 

ちなみにガウンと言えばロンドン時代のフラットメイトのゲイもガウンを持っていましたが、ガウンはゲイに人気があるのでしょうか。

 

話を戻します。

 

彼のことを胸中で「称賛する」というのは皮肉でも何でもなく、ゲイはもちろんのこと、不特定多数の人間と体の関係を持てる人たちを、異性愛者、同性愛者にかかわらず一理において尊敬する嫌いが僕にはあります。二里はありませんが。

 

以前にも申しあげたとおり(二度あること - Dub Log)、僕はこの年になるまで一度も苦労したことが無い、我ながら非常に幸運な人間で、同時に世界一幸せな人間だと根拠なく自惚れているのですが、あえてその根拠とやらを無理やり辿ってみれば、この自惚れは「積み上げてきたものを平らにする」ことを選び続けて、精神、物理の両面においての移動距離とエネルギー消費量を増やしてきたことに関係しているのではないか、とまた自惚れます。

 

過去のチンケな自慢話のいくつかに、出世や契約絡みの「他人に自分の価値を認められた」という承認欲求を満たすものがありました。

それらは同時に「自分の居場所を確立した」という帰属心を満たすものでもありました。

 

どちらの意味合いにおいても素直に喜ぶべき話ですが、タイミング良くなのか悪くなのか、ちょいちょいそういう時には新しい何かへの挑戦という選択肢も同時に現れます。

 

手に入れるまでの努力量が多ければ多いほど手に入れたときの喜びが大きい一方、それを手放すのにそれなりのエネルギーを要するのが自然なことだとは思いますが、数多い引っ越しとあの時代の超体育会系運動部と週刊少年ジャンプの影響か、僕は岐路に立たされたときは常に、積み上げてきたものをチャラにしてでも自分の許容と行動の範囲を広げる方を選んできました。

 

感覚としては、砂場において子供たちがより大きな砂山を作るために一度積み上げた山をてっぺんから手の平で撫でつぶして裾野を広げ、平らになった切り株状の裾野のみの「土台」の上にまた砂を積み上げて山を作る、山になったらまたてっぺんからつぶして更に裾野を広げる、という一連のあの動作に似ています。

 

「読んだことのない作家の小説を読む」とか「人に勧められた音楽を聴く」といったささやかな事例も含めて、迷った時は常に「時間と体力と脳ミソへの負荷をより要求される、より手間がかかる方を」という心構えでやってきたのですが、てっぺんから押しつぶされた砂山同様、土台の中心点、つまり軸というものはそれほど動きません。

 

そこから考えると「ヤリメド」の「ヤリ」の部分は月並みな尊敬で済むのですが、「メド」の方に関しては押しつぶしたところでおそらく元の土台の上には積み上がらない、隣りの山を眺めているような憧れに近い感覚を持ってしまいます。

 

ブラジル人にはまだ確かめていませんが、以前言及したガチムチの東京ゲイは処女より先に童貞を喪失した移籍組でして、比べた上で新たに山をまた積み上げるそのバイタリティーには、嫉妬することすら失礼な、何かあきらめのようなものまで感じてしまうのです。

男は女が必要(A Man Needs A Maid) - Dub Log

友人にはいませんが、両方を楽しみ続けるバイもしかりです。

 

同居人のブラジリアンゲイが先天的なゲイであったとしても、同性愛者からノーマルに移籍した側の人の話を聞いたことが無い事実を思うと、やはりソッチの世界の方が、マイノリティー差別に見合うだけの報酬があるであろうことも推測すると、快楽度や狂信度が高い気がします。

 

かようにして僕はそのバイタリティーに憧れとあきらめの意を持って、彼らとせめて友人でい続けているのですが、僕が積まなかった山がこれとは別にもう一つあります。

 

宗教です。

 

ブラジリアンゲイは前述のとおり聖歌クラブに所属しているくらいですから、当然これもクリアしています。

 

〈たぶんつづく〉