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女の扱い 男の扱い

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音楽鑑賞は僕の数少ない趣味の一つであり、ごくたまにではあるもののMTVなんかも観たりします。

 

ところで僕にとっての初めてのゲイのメイトはロンドン時代、同じフラットに住んでいたコロンビア人であり、以来尽きることの無い、差別に対する考察時において、人種間、宗教間、男女間、と共に彼らへの眼差しも含むようになりました。


そのコロンビア人の彼とリビングでMTVを見ていた時、画面上の女性アーティストがモデルらしき男性にビンタをかましました。


何も珍しくない光景ですが、当時は久しぶりの海外生活だったせいか、人種間の問題や男女の扱いにおいて敏感になり得ていた僕は、"男女平等"についてぼんやりと考えました。


合理的配慮にまで屁理屈に逆差別を訴えるような行儀の悪いヒステリックではなく、男性に対する女性のビンタが寛容されているところから、やはり男性上位の社会を透かし見たような感じがして、この風潮は本能から来るものか思考から来るものかについて一考しました。


差別に関しては以前も述べましたが(文明の横顔、みたいなもの - DubLog)、それが多種からの防衛などにおける動物的本能に起因しているものなのか、それとも文明が後から作った環境が一役買って出来たものなのか、について考えたということです。

 

断っておきたいのは性別における能力的な違いを男女間の優劣とは捉えていないので、例えば方向感覚や運動神経が男性の基準に達していないせいで女性が物事に対して遅れをとった時に

「これだから女は」

というフラストレーションではなく

「だって女のコだもの」

という微笑みに近い反応を僕は持ちがちです。

 

言い換えれば、性的能力差に起因する結果を見て、能力の優れている方がそうでない方に対してこのような感情を持つことは、決して差別ではないと思っているし、「女のコ」という呼称も含め、この手の感情は相手の品位や魅力や立場というものを何ら貶めるものでも傷つけるものでもないと僕は思っている、ということです。

 

そこいくとあの時MTVで見たビンタは非常に曖昧なラインであったのですが、白状すれば、僕自身、動物的な反射によるものか後付けの洗脳によるものか判断しかねる男女差別をしたことがあります。

 

8年くらい前のほんの一時期、僕には姪っ子がいました。

過去の記事に何度か出てきているアホの甥っ子家族の二人目の子供です。

 

僕が彼女の誕生の報告を受けたのは何度目かの転勤先でのことで、生まれつき体が弱かった彼女は誕生して以来ずっと入院生活を強いられている、という報告も同時に受けました。

 

それから1年半ほどが過ぎ、転勤先から帰省したある年の暮れ、僕は病院から一時退院の許可を貰った彼女と初めて対面することになります。

 

義姉(彼女の母)が母(彼女の祖母)に子守を頼み、ちょうど玄関で引き渡しているところで、まだ言葉を話せなかった姪っ子は大泣きをしていました。

 

「カズミ(姪っ子:仮名)は病院生活が長いからお父さんお母さんと病院の先生たち以外には懐かないの」

 と、引き取った母は泣きわめく姪っ子を胸に抱えながら言い訳していましたが、職業柄そのくらいの年齢の子供を抱き上げる機会が多かった僕は、先輩風を吹かして「貸してみ」と母から彼女を取り上げました。

 

すると彼女はピタリと泣きやみ、すぐに僕に懐き出します。

 「えー!ずるーい!何でシンだけー!?」

 と母は悔しがっていましたが、プロのこちらとしては当然の結果のことであり「そりゃあババアよりは若いお兄ちゃんの方がいいに決まってんじゃん」と一蹴してやりました。

 

とはいえ姉家族も含めた初めての「女の子」に特別扱いされた優越感は至福に値し、兄夫婦が引き取りに来る翌日までの限られた時間を目一杯楽しもうと、暇さえあれば彼女を抱っこしていました。

 

文字通りの猫っ可愛がりで、彼女の兄に当たる、アホの甥っ子のお古を着させられていることを知った時には、何の立場からなのか、関係ない母に文句を言ったりなんかもしましたが、思う存分甘やかし続けた、出会いから数えて2日目の夕方、兄夫婦が引き取りに来る直前にちょっとしたザワつきが起こりました。

 

姉側の甥っ子2人も合流して、アホの甥っ子と3人でリビングでドタバタと暴れていたのですが、少し目を離した隙に姪っ子が3人の”お兄ちゃん”たちに向かってヨチヨチと歩いていきました。

 

当然のごとく周りに目がいかない男の子たちはその姪っ子に気がつかず、ぶつかって倒してしまいます。

 

彼女は泣きはしなかったものの、過保護な叔父さんである僕は急いで彼女を抱き上げて

「お前ら、何やってんだ!男の子なんだからちゃんと優しくしなきゃダメだろ!カズミは女の子なんだぞ!」

と甥っ子たちに一喝しました。

 

3人とも驚いて僕を見上げます。

 

そしてその様子を見ていた母が言いました。

 

「何言ってんの。カズミは男の子よ」

 

 

 

 

 




しばしの沈黙の後、僕は顔前に抱き上げた言葉の通じないカズミに対して「マジで?」を連発してから、床にそっと降ろしてお兄ちゃんたちの方へ背中を押してやりました。
もはや興味無しです。

 

「人のことアホアホ言うくせに、シンさんも結構抜けてるところありますよね」

「ウンコ」という単語で涙を流すまで笑ってくれるアホな後輩(自然、この上なく不便で堂々としたもの 1 - DubLog)にそう言われた時には素直に「おまえが言うな」と切って捨てましたが、この件に関してはもう少し言い訳が必要かと認めています。

 

まず、仮名を"カズミ"としましたが、本名はもっと女の子寄りの名前で、実際、同名の女友達が僕にはいますが、男友達にはいない、という水準の風変わりな名前であります。

 

次に「ババアよりは若いお兄ちゃんの方がいいに決まってる」発言に乗せた〈女の子なんだから〉という含蓄を汲み取らずに、ただ「そっか」と返した我が母の鈍さにも一旦の責任の余地があるようにも見えます。

 

お兄ちゃんのお古の服への批判も同様の理屈で、更にはそのお古批判とほぼ同時刻、実は母が彼に向かって「カズミくん」と呼んだことがあったのですが、

「『カズミくん』じゃなくて『カズミちゃん』だろ」

という僕のツッコミに対してもまた

「そっか」

の一言で片付けてしまったという罪があります。

(「カズミくん」の時点でこちらが気付くべき、という正論は私情により却下)

 

というわけで喧嘩両成敗はさすがに難しくとも、言うなればあの時の僕の“やらかし”は「アホ」とか「天然」とかまでは行かず、情状酌量を貰える程度のちょっとした“おっちょこちょい”だったと評価してもらえれば幸いです。

 

あまり強くアホを否定すると、アホの甥っ子が「天然」と言われた時「ハア?」という反応を見せたのと同様、「アホはアホに気づかない」の好例に分類されそうなので、この一件に関しては6割程度の非なら自分にあったことを受け入れようかと思います。

 

話が逸れました。

 

時間にして僅か24時間程度の蜜月の時は、かようにしてあっけなく終わりを告げ、初めての姪っ子がいなくなった代わりに甥っ子が一人増えたのですが、この「女の子ならケガをしないように過保護にしてもOK」は本能から来る態度なのか文明が生み出した空気なのか、未だに解決していません。

 

解決はしていなくても理屈はどうであれ結果として優しくなれるのだから、という大義名分を持って、僕は性マイノリティーと接する時、基本的には女性に対するそれと似た心構えで向かい合います。

 

さて、最近うちのゲイがとうとう特定のボーイフレンドを作りました。

ヤリメド(ソッチの山を眺めながら - DubLog参照)もしばし卒業です。

 

付き合いたてですから毎日のように会っているらしいのですが、その結果として我がフラットに相手が訪問することも多くなりました。

 

僕の部屋に隣接するウェイティングルームのテレビを結構な音量で夜中過ぎまで、ソファーでいちゃつきながら楽しむこともしばしばありますが、これがノーマルの男が新しい彼女を連れてきて騒いでるのであれば、嫉妬も込みで妨げられた睡眠の不平不満をこぼしやすくもなりますが、あら不思議、女のコが出来たてのカレシとはしゃいでいるのね、と思えば、微笑ましさすら感じます。

 

ボーイフレンドとは関係ないけどリビングで頻繁に練習している聖歌もしかり、聞くに耐えない音程を外した不美声も、女のコが歌っていると思えば、あらまた不思議、音痴も可愛らしく思えます。

 

他にも二つの意味での女王様な振る舞いを数え上げたらキリがありませんが

「だって女のコだもの」

の態度を持って彼(彼女)を見守ってあげれば大体のことは落ち着きます。

重複になりますが、この態度に蔑視や性差別の他意はなく、これらは彼(彼女)の魅力や威厳や品位を貶めていません。

ただ解決していないだけです。

 

最後に、ユーロトンネルについて語ったのと同じジャーナリスト(言ってみる価値があるもの - DubLog)が同じエッセイ集の中で、英国人にlikeとloveの違いについて問うた時のことを書いていました。

 

その問われた英国人曰く

likeは同質のものに対しての感情であり、loveは異質のものに対する感情

とのことだと述べられていました。

 

この本を読んだ二十歳の頃、この言葉の意味がなんとなくわかりかけた気がしていましたが、20年経った今、実はわからないままです。

 

「女のコだもの」のくだり同様この哲学に関しても、この先も解決はしないが、しかし心に留めておきたい一件ではあります。

 

 

*ちなみに「カズミ」が抱っこされても泣かなかったのは、僕を兄(彼の父親)と間違えたのだろう、という推理に落ち着きました。

現在の「カズミ」は元気すぎるくらい健康です。

家族の恥になるので詳細は書けませんが、とうとう我が一族にも僕を超える問題児が誕生したと言えるくらいの問題児で、現在我が家の悩みの種となっており、しかし僕は一人喜んでいます。