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あるいは間違った食育

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10代の時に親元を離れて以来、基本、一人暮らしの時は自炊をしています。

 ここダブリンでの自炊率は特に高く、こちらでの生活も早8か月目に入ろうかというのに、まだ片手で足りる程度の回数しか外食をしたことがありません。

 

経済的なことだけでなく、この国のメシの不味さ、僕自身が出不精であることなどもその理由に挙げられますが、自炊を続ける主な理由は、心地よい心身状態を保つための健康的な食事の摂取はもちろんのこと、以前にも述べた通り、それによって必要となる料理の習慣そのものも、僕にとっては有効的なものだと考えているからであります。

 

とはいえ、料理のレパートリーは非常に少なく、栄養に対する最低限の気を遣って同じ料理でも使う具材を変える工夫くらいはしていますが、やはり栄養云々よりも調理の方に主眼を置いた、手段が目的化している状態になっています。

 

若い時に最初に覚えた料理が肉野菜炒めだったので、基本そこから派生したチャーハン、肉野菜パスタ、肉野菜スープが献立のほとんどを占めていますが、例えば覚えたての頃には油の量や火力や調味料、フライパンに入れる具材の順なども細かく考えていたものの、歳月が流れるごとにどんどん簡略、簡素化されていき、ここのところは、こちらのソーセージやハムの塩気が強いことをいいことに、テフロン加工の鍋に油はおろか、何の調味料も入れず、何なら肉汁と野菜の汁気を頼りに、水すら入れないこともしょっちゅうある「肉野菜スープ」と呼べない「肉野菜スープ」、おそらく「蒸し肉野菜」と呼んだ方が一般的には分かりやすいであろう物を作っています。

 

ひどい時には「食う時にナイフで切りゃいいじゃん」とばかりに調理に包丁を一切使わず、例えば肉類は丸ごと鍋の中へ、手で千切れるタイプの野菜は手で千切って、それ以外の野菜はやはり丸ごとで、という扱いで全て鍋にぶっ込み、弱火でコトコト30分近くの時間を煮込み、その間に食事以外の作業をしている有様であります。

よって、蒸したのか茹でたのか、ホクホクの人参が丸々一本出てくるような、まるでダメなフランス人が作ったような見栄えの悪い料理が出来上がりますが、それもこれも洗い物を増やしたくない、だって時間がない、という何とも貧しい理由からであります。

 

こうなると果たして本当に料理が生活を健やかにする我が習慣の一つになっているのか、そもそもこれを料理と呼んでいいのか、という根本的な疑問が我ながら沸いてきますが、ちょっと文字が変わったものの、一応「自炊」は達成しています。

 

元々野菜スープを作るようになったきっかけは、会社員としてサッカースクールの運営をしていた10年前、福岡の事務所兼寮でいつもどおり普通に肉野菜炒めを作っていたときに、塩を大量に入れ過ぎるという失敗をし(この時は多分、塩、醤油、コショウくらいは使っていた)、その味を薄めるために水を入れてみたら意外とイケたので、というものです。

 

その寮に一緒に住んでいたタツヤとセイジ(アジアの魅力 - DubLog)にも食べさせたところ、彼らからも好評だったので、そのまま僕のレパートリーに入れました。

今思えば、一応上司である僕の作った料理をさすがに「不味い」とは言えなかったのかもしれません。

 

次の転勤先の岡山の事務所は、広めの1LDKのマンションの一室を借りたもので、リビングを事務所に、ダイニングをコピー用のスペースに、そして残りの1ルームを僕の自宅として利用しました。

 

事業部全体で最も業績の良かった支部だったので、社長や事業部長からの稟議も非常に通りやすく、仕事の割り振りも好き勝手にやっていた僕は、基本、裏方を自分の仕事に割り当てていました。

 

そのせいで大抵の日は僕の「帰宅」が一番遅くなるのですが、僕が最も信頼を置いていた部下が、仕事が好きなのか、帰りたくないのか、ちょいちょい僕が仕事を終えてもまだデスクで諸作業をしているなんてことがありました。

 

実は岡山に転勤する目的が元々二つあり、一つは業績の改善のため、ということで、僕の前任者は降格もさせられていました。

そしてもう一つが体質改善でした。

平たく言えばリストラ、人材の入れ替えです。

 

その会社がブラックであったかどうかは一先ず置いておいて、会社の信条や理念、体質というものが、前任者から面接時に正しく伝わっていなかった可能性があったので、従業員一人ひとりと面談を重ね、そもそも採用の稟議が通っていることがおかしいヘルプのアルバイト社員は、僕が転勤したその月のうちに全員辞めてもらい、それ以外の従業員も最終的には一人を残して全員入れ替えました。

 

その残した一人が、僕が最も信頼をしていた彼でした。

自分が面接、採用、研修をした従業員たちよりも、こと営業に関しては優れていた彼でしたが、僕より一つか二つ年上の彼は、日本料理屋で10年修業した後、自分で居酒屋を立ち上げて、しかし上手くいかず店をたたみ、好きだったサッカーのコーチに鞍替えした、という変わり種でした。

 

そんな彼がまだ事務所に残って仕事をしているときに、仕事を先に終えた僕が一人、キッチンで例の野菜スープを作ったことがあるのですが、仕事を遅くまで頑張っている彼を慮って「おまえの分も作るよ」と提案したところ、頑なに拒否されました。

 

「食材と調味料を見たら、だいたい味が想像できるんですよね」

という、凄いようでよく考えたら普通のコメントを拒否の理由にしていましたが、分かりやすく言えば

「だってそのスープ、不味そうだから」

であります。

 

本人は気を遣っている言い回しのつもりだったかもしれませんが、このコメントのみならず、まあまあ歯に衣を着せない物言いで僕と接するタイプの部下だったので、それのおかげで仲良くなれたというのもあるかもしれません。

 

そして結局仕方なく自分の分だけを作ることになるのですが、その当時、既に「調味料は塩しか使わない」というステージに達していた僕は、元料理人ならではの、美味くスープを作るコツを彼に尋ねてみました。

 

「そもそも何で塩しか使わないんですか?」

「いや、塩以外の調味料使ったら負けた気になるじゃん」

「(笑)シンさん、それ、料理人の考え方ですわ」

「プロの料理人は味の素なんて絶対に使わないんだろ?」

「いやあ、でも最近は本っ当によくできた化学調味料で、プロでも判らないやつ、ありますよ」

「もちろん、おまえはそんなの使わないだろ?」

 

そんな話を二人でしながら、僕はそれより少し前の時期から市民権を得たワード、「ニート」の言い分を我が調理法に重ねていました。

 

有名な「働いたら負け」というものです。

 

友達が買った週刊少年ジャンプを読むことを毎週の楽しみにしていた11歳くらいの頃の僕は、愛とか友情とか果てしない夢のために生きることが男のあるべき姿、のような人生観を数々の漫画から学んできました。

 

生きがいを持つということが当たり前のことのように思っていて、しかしちょうど11歳の一時期、夢というものが無かった僕は、小学生でありながら「あーあ、このまま夢も目標もなく、大人になっちゃうのかな、嫌だなあ」と漠然と思っていました。

 

何故か若者向けの当時の(今もかもしれませんが)音楽シーン全般にも、不良漫画にも、「大人は汚い」、「大人はダサい」という風潮と主張があり、それに影響されていたのかもしれません。

 

そこから月日が流れ、人は“夢のために”生きるのではなく、むしろ“生きやすくするために”夢を持つのではないか、と次第に疑うようになりました。

ことを大袈裟にすれば「“自殺しないため”に生きる意味/動機を持つ」というものです。

 

もちろん、愛や友情に関しても同じ扱いになります。

これらは「人生は暇つぶしだ」という、多くの人が語る哲学が少しばかり変色しただけであって、要点はさほど変わりません。

 

20歳になり、夢が先だったか人生が先だったか、いずれにしても夢破れてブラジルから帰国した僕は(二度あること - DubLog)、生きることそのものを最終目標にした人生に、ある意味、憧れを感じていました。

 

人生の長い時間をやり過ごすために、つまり永遠に感じる暇を潰すために、愛や友情や夢ではなく、栄養と呼吸のみを動力にした「生きる」という行為。

一体感、達成感、充実感、疾走感といった、心が喜ぶタイプの働きかけや助けの無い、超算数的かつタフな生物としての、不純物の無い命の扱い方。

 

という意味合いにおいての、つまり

「他人との繋がりも相互作用も感謝されることもすることも、仲間意識も協同も存在意義も、働くことで手に入れることが出来そうなその他諸々の喜び、逆に苦しさも、俺は強い人間だし、暇を潰すことも上手だから一切要らない」

という意味合いにおいての「働いたら負け」であったなら(おそらくは違うと思いますが)、それがいいかどうかは一先ず置いておいて、なかなか見上げた根性だ、という感想を持ち得ます。

 

しかしながら僕が尋ねた、「もちろん、おまえはそんなの(化学調味料)使わないだろ?」の質問に対する、我が愛すべき部下の答えは

「いやあ、美味けりゃ何入れてもええんちゃいます?」

でありました。

 

元プロの料理人が、見上げた根性でありました。

 

「味の好みは人それぞれだが、最低限、自分が美味しいと思っているものを他人に押し付けない、というマナーさえ守っていれば、どの調味料を使おうが、どの料理をどんな作り方で作ろうが“ええんちゃいます?”」

という意味合いのこのコメントを

「暇の潰し方、つまり生きる喜びというものは人それぞれだが、最低限、個人の趣味や嗜好、楽しみ方をいちいち押し付けない、というマナーさえ守っていれば、自分自身はどんな生き方をしてもいい。ニートだろうがワーカホリックだろうが。無職だろうがブラックに勤めていようが」

と、まさか本人にこの示唆は無かったと思いますが、僕は勝手にこのように解釈しました。

 

僕が岡山を去った後に諸事情で独立をして、いまだにそのサッカークラブの指導をしている彼とは、今でもたまに連絡を取り合います。

僕が西日本に用事がある際には極力、岡山にも寄り、酒の飲めない彼とお茶を酌み交わします。

 

まさか美味いスープの作り方を聞いてきた元上司が、9年後の今、包丁も水も使わない「投げっぱなし」を意固地に「スープ」と呼び、それを主食にしているとは、彼も想像がつかないことだと思いますが、他人に自分のやり方を押し付けないだけでなく、他人のやり口にいちいち文句を言わない、というマナーも身に着けている彼は、おそらく「ええんちゃいます?」と言ってくれることでしょう。

 

などということをいつもの肉野菜スープを作りながら、馳せてみました。

 

ちなみにですが、時間がないが故の「投げっぱなし」なのに、食するときは丁寧にそれらを噛みます。

滅多にしない外食や、出来合いのものを食べる時も同様に、きちんと咀嚼します。

 

別に無理に「咀嚼」を何かに結び付ける必要はありませんが、僕のような貧乏性は、おかげ様で基本、いちいちの事をいちいち楽しむ癖があります。