アジアの魅力
でも好きでもない人にモテても意味が無いじゃないですか - DubLog
過去にも何度か申し上げているとおり、僕は出不精なので用事がないと海外には行きません。
サッカーの用事と言えばだいたい南米かヨーロッパとなるので、実は昨年まで日本以外のアジアの国に訪れたことがありませんでした。
初めてのアジア渡航は昨年の秋も深まったころ、サッカーのシーズンが終了した直後のことで、「ウンコで笑うアホの後輩」(愛すべきアバズレたち - DubLog)の結婚式に出席するのが目的でした。
その後輩が数年前、当時の勤め先の社員旅行で行く海外でのわずか数泊の滞在のために、しかも行先はグアムなのに何故か英会話を教わろうとして、なのに何故か台湾人女性の先生を選び、しかしタツヤ(後輩:仮名)の英会話能力があまりに低すぎて結局日本語での会話を楽しむだけに終わり、その末でその先生と結ばれての挙式でした。
「タツヤ、おまえはやっぱりタツヤだな!」
彼からアホな迷惑を被るたび、あるいは彼らしいアホなエピソードを聞くたびに、タツヤ=アホという前提で、蔑視の意味をふんだんに込めてこのセリフをよく使っていましたが、その馴れ初めを聞いた時ももちろん、これを言いました。
ちなみに結婚前にその女性に会ったときに、かなり綺麗な人でおしとやかな印象を僕は受けたのですが、タツヤいわくそれは外向きの仮の姿で、彼女自身も「私は外面のいい女」と堂々とカマトトを認めているらしく、実際の二人の間には完璧な主従関係があるみたいです。
もちろんタツヤが「従」の方です。
タツヤから聞く彼女の話も、鬼嫁(鬼彼女)に対する不平不満が約10割を占め、彼の全ての知人に結婚どころか付き合いそのものを反対されてはいたのですが、本人がいいというなら知ったことではありません。
かくして初アジアが初台湾にもなり、式には我々の共通の後輩のセイジ(仮名)も福岡から参加するとのことで、彼と連絡を取り合って、台中で行われる式の数日前に、先に渡っているタツヤも含めて台北で合流して、何日か遊んでからの出席となりました。
その間、段取りをほぼ全てタツヤに任せていたのですが、途中途中、何度も遭遇した彼らしい不手際に、やはり何度も
「タツヤ、おまえはやっぱりタツヤだな!」
を連発しました。
余談ですが、ちなみにセイジも、彼からしたら先輩に当たるタツヤのことを「タツヤ」と呼び捨てします。
というよりも、今から10年前に転勤先の福岡でタツヤともセイジとも知り合ったのですが、それ以外の職場の従業員もほぼ全員がタツヤを呼び捨てで呼んでいました。
良くて「タツヤ君」。
つまり彼は愛されキャラでした。
台北での合流中に、式が行われる台中での我々ゲストの宿はもう予約してある、というタツヤらしからぬ手際のいい報告を受けましたが、その部屋は3人部屋で、残りの一人は僕らがまだ会ったことのない、彼の学生時代の友人(マモル君:仮名)、とのことでした。
人見知りのセイジは苦笑いをしていましたが、まあこれくらいはタツヤらしい、かわいいものです。
式の前日の夕方に、セイジと僕は高速バスで台北から台中に移動し、少し前に戻っていたタツヤと再合流し、相手のご家族とタツヤの家族と、我々を含む、日本からお祝いに来た彼の友人たちとでの食事会が開かれました。
友人のメンツの中には知った顔もあり、久しぶりの再会を懐かしみましたが、もう一つ嬉しかったのは彼の母親に会えたことです。
彼とは似つかないしっかり者の弟とは何度も会ったことがあったのですが、3人家族の母子家庭で育った彼の母に会うのはそれが初めてのことで、弟への方ではなく兄に引き継いだ遺伝子の方の持ち主であることを、その母の個性に期待していたのですが、残念ながら、いや喜ぶべきですが、還暦近いそのお母様は実に立派で魅力的な真っ当な方でした。
一つだけ可能性を感じたのは口癖が「マジですか?」というところです。
彼女も長男から僕の話をたくさん聞かされていたみたいで、福岡と東京で自分の息子が世話になったことに深々と感謝を示すものだから、実際には数々のパワハラがあったことに罪悪感を持ったわけでもないのですが、お母さんは素敵な方ですし、何よりめでたい席だったので、僕も彼がいかに素晴らしい人物であるかを語る、という撲殺的な嘘でそれに応じました。
「いえいえ。こちらの方こそお世話になりましたよ。彼はうちの支部のエースでしたから」
「マジですか?」
「同僚のみんなからも信頼されていて」
「マジですか?」
「僕も彼には頼りっきりでしたもん」
「マジですか?」
もちろん全部嘘でしたが、僕も彼女の「マジですか?」を気に入ってしまい、そう聞かれる度にこちらも「マジですとも」と返していました。
このように食事会は賑やかな歓談とともに進み、楽しいものとなりましたが、もう一人の好人物、奥さんのお父さん、つまりタツヤの義父になる人に、タツヤから教わったばかりの中国語での「パパ、ハンサム」と「パパ、ナイスガイ」を度々繰り返してしまったせいか、この義父に少しばかり気に入られてしまいました。
それのせいで翌日、式場へ向かう花嫁と花婿を後部座席に乗せた、義父の運転する家族用のメインの車の助手席に何故か僕が座らせられたり、披露宴での家族用の席に何故か僕も着かされるという、いやーな場違い感を持たせられる羽目にも遭いました。
もちろんお義父様の指示です。
とはいえ式も披露宴も幸せ溢れる素晴らしいものでした。
披露宴ではなく式の方で、神父的なオジサンを前に立たせたまま、新郎新婦が両親に向かってではなくお互いに向かって手紙を読む催しがあったのですが、まずは新郎のタツヤから、相手の言語で書かれた手紙を相手の言語で読み出すと、時間の経過とともに新婦とその両親、何人かの友人からすすり泣く声が聞こえてきました。
が、そもそもタツヤ本人が一番泣いていました。
海外という非日常で、その内容は彼の家族を含めた我々日本人にはビタ一文たりとも分からないが、本人はえらく感極まって手紙を読み上げている、中国語で。そして泣いている。台湾人も泣いている。台湾人しか泣いていない。
という絵面がなかなかシュールな劇作的でありましたが、しかし細かいところに状況の妙を見つけてしまう、このひねくれた性格が自分自身でも好きになれない僕は、頑張って笑いを堪えて新婦側の温度に寄り添うことに努めました。
そして今度は新婦が外国人訛りのある日本語で、やはり泣きながら手紙を読むと、僕とセイジの前の席に座っていた新郎の母と弟も泣き始めました。
言うまでもなくタツヤの涙も一層大粒のものとなります。
片言の言葉で読む手紙、ずるい。
と、その時初めて知った片言の破壊力を僕も認めていましたが、タツヤは式が終わって披露宴に移るまでの間の記念写真タイムでもまだ泣いていました。
家族水入らずの3ショットでは3人とも同じ顔で泣いていて、そこから幸せな家族の風景を想像できましたが、同時に僕は彼が僕の前で初めて泣いた日のことを思い出していました。
そこから遡ること9年、僕らは福岡にいました。
僕は自分が立ち上げた九州支部を去り、岡山に転勤する日のことであり、車で福岡を出発する直前のことでありました。
本部から連れてきた社員も既に広島へと転勤しており、事務所の物件探しと契約同様、その当時在籍していた従業員は全て自分が現地で採用して最初から関わった者たちでした。
その会社に在籍していた期間中、最も多くの困難に取り組んだ時期というのが、福岡で過ごした一年強の間で、最後の終礼時に、思わしくなかった営業成績と自分の力不足を省みて、それでも真面目に仕事を頑張っている部下たちをねぎらい、感謝を述べました。
そしていつも通りに終礼を締めようと思ったときに、セイジが
「俺たちからも最後に一人ずつ、シンさんに何か言わせてくださいよ」
と言いました。
そして後輩であるセイジが当たり前のように先輩のタツヤに向かって
「はい、じゃあまずタツヤから」
と指名します。
タツヤは照れくさそうに立ち上がり、始めました。
「・・・えーとー・・・僕はー、九州支部の現地採用第一号でしてー・・・立ち上げの時から関わらせてもらいましたがー・・・シンさんにはこの一年ちょっとの間、本当にお世話になりました・・・」
出だしは順調です。
「その間にシンさんには・・・『おまえは俺の知り合いの中で“社会人として”というだけではなく“人間として”も、もうホントに一番下の最低の男だ』と何度も言われてきましたがー・・・」
すっごいイジメ。改めて聞くと我ながら恐ろしい。
いやこれは笑いどころなのかな、でもみんな黙ったままだしな、と思っていると、タツヤの目から大粒の涙がこぼれ落ちました。
「でも・・・でも・・・僕にとっては・・・ううっ(嗚咽)・・・僕には・・・僕にとっては・・・シンさんは・・・最高の上司でした・・・ううっ・・・」
部下が泣きながら自分との別れを惜しみ、称賛の言葉を送ってくれている、というこの上なく上司冥利に尽きるシチュエーションだったのですが、いかんせん「“人間として”も最低の男だ」と何度も言われていた、というところが不条理コントの前フリだったように感じ、彼が泣けば泣くほどギャップの妙が生まれ、僕はその時、実は笑いを堪えていました。
そしてそんな「堪え笑い」を溜めるための程よい間をおいてから、セイジが一言。
「正確には『最低よりちょっと下』って言われてたろ」
堪えていた笑いは少量の鼻水とともにバーストしてしまい、しみったれていた場の空気も和みました。
タツヤも泣き笑いです。
その後、みんなからも別れの言葉をもらい、セイジからタツヤへの「おまえが先に泣いたせいでシンさんを泣かせられなかった」という言いがかりの説教を聞き、僕は準備が全て済んでいる自分の車に乗り込みました。
駐車場でみんなが見送ってくれた時、セイジが「これ、餞別です」と言って、数日前に僕が彼にあげたアンマンを蒸した状態で渡してきました。
得意顔でした。
天然なのかどっちか分からなかったけど、空腹ではなかったのでそのままダッシュボードの上に置き、関門海峡を渡ったあたりで一齧りをしようとしたところ、冷めきったアンマンは固くなっていて食べられませんでした。
よって山口のパーキングで捨てました。
全員アホです。
あれから10年近くが経ちますが、僕が頻繁に九州に訪れるせいでセイジとの付き合いは未だに続いていますし、後に上京してきたタツヤとは僕のロンドンからの帰国後に都内で再会し、更には僕が通勤の都合で彼の隣町に引っ越した去年の一年間は、それこそお互いの家を何度も行き来していました。
彼のワンルームのアパートに、諸事情で2週間ほど滞在させてもらったこともあります。
数年ぶりに異国の地で3人が合流してそのうちの一人の幸せを祝う、というありがたい機会に感慨深いものを感じましたが、「アジアの魅力」とはそういうことではありません。
この後のことです。
先述のとおり式も披露宴も素晴らしいものでしたが、素晴らしい出会いは披露宴の終わった直後に待っていました。
というわけで前置きが長くなりすぎましたが、長くなりすぎたので今回は前置きのみで終わります。